一般社団法人日本推理作家協会

日本推理作家協会70周年 書評・評論コンクール

 日本推理作家協会70周年を記念して、評論・書評の原稿を募集し、優秀な作品に賞を差し上げようという企画を実施しました。一年間の計画で、この八月選考分をもって無事に終了しました。
 毎回応募してくださる熱心な方もいて、新たな才能に出会えたと手ごたえを感じました。
 近年は、評論家や書評家の活躍の場が減り、新たな書き手に出会う機会が少なくなりました。評論家・書評家を目指そうにも、どうすればいいのかわからないというのが現状ではないでしょうか。
 一方で、出版界は文芸賞の予備選考委員などでそうした人々を求めています。協会も、日本推理作家協会賞や江戸川乱歩賞の選考において、そうした方々の力を必要としています。にもかかわらず、新たな評論家・書評家と出会うことが難しくなってきていました。
 評論も文芸であると考えると、評論・書評が衰えるということは、文芸そのものが衰えることでもあると思います。
 そうした状況の中、協会がこうした事業を行ったことは、おおいに意義があったと自負している次第です。
 優秀な作品を応募してくださった方々には、今後文芸賞の選考や文庫の解説などを依頼する予定です。

第四回

 第四回(二〇一八年六月末〆切)の評論・書評募集の応募作は十五篇である。今野敏、柴田よしき、西上心太、杉江松恋の四名による選考の結果、浅木原忍「戦争小説と本格ミステリの交点――古処誠二『いくさの底』解説」と野地嘉文「カリカチュアされた変格探偵小説――『粘膜蜥蜴』」の二作を入選、荒岸来穂「見えざる悪意、型式と「光」の歪み ―貫井徳郎『乱反射』―」を奨励賞とすることに決定した。最終回ということも反映してか、全体の水準は高かった。
 浅木原作品は先の大戦を題材とする『いくさの底』を推理小説として読むことの意味を明らかにしようとするものであり、作品の世界観が推理小説ゆえの論理性になぜ合致したのかという事情がわかりやすく解説されている。選考委員からは論の根拠が薄く牽強付会との批判があったが、独自の指摘に頷かされる箇所も多く、強引に感じられる論の進め方も今後の錬成によっては作者の武器になるのではないかという意見もあり、授賞の結論に達した。
 飴村行『粘膜蜥蜴』を論じた野地作品は、これがいちばんおもしろかったという声が多く、過去の応募作にも見られた書評者としての力量が発揮された一作であった。生理的嫌悪を催させることで読者の感情を操作するという飴村独自の作法を的確に捉えるだけではなく、その起源を昭和の変格探偵小説に求めて遡っていく論の立て方は、野地ならではのものである。すでに評論作法を自家薬籠中のものにしている観がある。
 荒岸作品は、推理小説としては変則的な構成を持つ『乱反射』をよく咀嚼し、魅力を読者に伝えきった点が高く評価された。選考委員からは、「光」「悪意」といった用語に足を取られて作者が思考停止してしまった箇所がある、との批判があった。また、貫井作品についての目配りが一部に限定されており、それゆえの脆弱な部分もある。そうした欠点はあるものの、作者の意欲と将来性を評価したいという希望もあり、今回は奨励賞が妥当という評価に至った。
 今回の応募作には文壇ゴシップとして興味深い内容を含む文章や、籠められた熱量を微笑ましく感じるものなども寄せられた。いずれも楽しく読めたのだが、評論・書評としての欠陥は無視できなかった。自身の意見を開陳するためには、思いつきが秀でているだけではなく、それを証明するための論拠が必要になる。逆に、意見の借り物で作られたつぎはぎにも魅力はなく、作品について独自の見解が中心になければ、文章に価値を見出すことは難しいのである。
 今後もよい評論・書評を。

戦争小説と本格ミステリの交点――古処誠二『いくさの底』解説

浅木原 忍

 そうです。賀川少尉を殺したのはわたしです。――殺人者の告白から幕を開ける本書『いくさの底』は、古処誠二の十六冊目の著書になる。集英社の「小説すばる」二〇一六年十一月号に掲載されたのち、改稿を経て翌年八月にKADOKAWAから刊行された。
 舞台は第二次世界大戦中のビルマ。イギリスの植民地であり、中国の蒋介石政府への物資輸送ルートのひとつであったビルマへ日本軍は侵攻し、四二年五月には全土を戡定(平定)した。本書の作中には具体的な日付の表記はないが、記述からすると本書の事件は一九四三年一月から二月頃の話になる。
 扶桑綿花(これは架空の企業)の社員である依井は、賀川少尉率いる警備隊の通訳として、シャン州ヤムオイ村に配属された。だが駐屯当日の夜、賀川少尉が何者かに殺害される。敵兵の襲撃か、村の住民の仕業か、それとも隊の中に犯人がいるのか――。賀川少尉の死は伏せられたまま、依井は隊長代理となった杉山准尉や、連隊本部から派遣された上條副官とともに真相を探ることになるが、さらに第二の殺人が起こる……。
 本書の大枠は、戦地を舞台にした犯人探しミステリである。殺人者の告白を差し挟みながら、抑えた筆致の中に静かな緊迫感をはらんで物語は進む。謎の中核は、「なぜ、今、ここで殺人が起きたのか」。ミステリとして本書を読めば、ビルマという舞台、戦地という状況、日本軍という組織、全ての設定を見事に使い切った戦争ミステリの傑作と言い切って差し支えない。毎日出版文化賞と日本推理作家協会賞のダブル受賞という快挙は、戦争小説としてもミステリとしても高い達成を見たことの証左だろう。本格ミステリ大賞にもノミネートされ、受賞した今村昌弘『屍人荘の殺人』に僅か二票差という接戦を演じた。
 だが、本書に関する各種インタビューなどによると、著者にはミステリを書こうという強い意識はなかったという。ではなぜ、本書はこのような本格ミステリ的な構造を持つことになったのだろうか。

 古処誠二は二〇〇〇年、自衛隊レーダー基地での盗聴事件を描いた本格ミステリ『UNKNOWN』(講談社ノベルス、のち『アンノウン』と改題して文春文庫)で第14回メフィスト賞を受賞してデビューした。その後『少年たちの密室』(二〇〇〇年、講談社ノベルス。のち『フラグメント』と改題して新潮文庫)、『未完成』(二〇〇一年、講談社ノベルス。のち『アンフィニッシュト』と改題して文春文庫)と本格ミステリの傑作・秀作を続けて送り出すが、第四作『ルール』(二〇〇二年、集英社)から、第二次世界大戦を舞台にした戦争小説へと舵を切る。
 戦争小説を書き始めてからの古処作品は、ミステリ的なサプライズの技巧を用いつつ、大戦末期から終戦前後の時期を舞台に、様々な対比構造を通した価値観の揺らぎを作品の中核としていた。子供と大人、男と女、日本人と米国人、兵士と民間人。戦地という小状況に翻弄される人々が様々な矛盾や問いかけに直面するが、断定的なイデオロギーを慎重に排除し、その問いの答えを読者自身に委ねる。これらはそういう姿勢の作品群だ。
 しかし古処は短編集『線』(二〇〇九年、角川書店)以降、イデオロギーの排除をさらにストイックに突き詰め、〝戦後の視点〟を徹底して作品から排する方向に進んでいく。最も象徴的なのは、現代を舞台にした『死んでも負けない』(二〇一二年、双葉社)だ。
 ビルマ帰還兵で、戦場での体験を武勇伝として吹聴する横暴な祖父に苦労させられる高校生の孫を語り手にしたこの作品では、無敵の祖父が寝言で口にした謝罪の言葉は誰に向けられたものか、という謎が提示される。その答えは物語の後半で明かされるのだが、驚くべきは祖父の真意が判明しても、それが孫である語り手には何の影響も及ぼさないことだ。祖父の謝罪の感覚は、現代の高校生である孫には実感をもちがたく、彼にとって祖父はどこまでいっても困った老人でしかない。そして古処誠二は、それを良いとも悪いとも断言せずに、ただ「そういうもの」として書く。祖父の体験や思想は祖父個人のものでしかなく、現代に生きる孫が共感する必要も否定する必要もないのだ、とばかりに。だから孫は祖父の真意を知ったからといって「成長」はしないし、祖父の謝罪の感覚を否定もしない。それはどちらにしても、〝戦後の視点〟であの戦争をイデオロギー的に解釈する行為でしかないからだ。
 その〝戦後の視点〟の排除の姿勢は、本書でも徹底されている。たとえば本書では戡定、シャン州、重慶軍、怒江など、現代の日本人である我々読者には馴染みのない単語や地名が説明なしに語られる。オーマサ、コマサ、イシマツという、清水次郎長一家を元ネタにした村の助役の渾名も、ある程度以上の年齢の読者でないと通じにくいだろう。だが、視点人物の依井にとっては、それらは説明するまでもない単語だから、現代小説で「スマホとは何か」をわざわざ説明しないのと同じで、依井も無用の説明はしない。作者はこの小説を一九四三年当時の視点に限りなく近づけようとしているわけだ。
 そのように、戦後の目を通したものではない、その当時の視点をシミュレートし、当時その場に生きていた「個人」の在り方そのものへと、古処作品の興味は向かっていった。その結果が『ニンジアンエ』(二〇一一年、集英社)や『中尉』(二〇一四年、KADOKAWA)で、前者では日本軍の捕虜になったイギリス人将校コーンウェル中尉、後者ではペスト封じ込めの任務にあたる日本の軍医伊与田中尉の、不可解な行動の理由をめぐるホワイダニット・ミステリ的な趣向が強くなっている。
 戦地という状況で、「個人」がその時代、その場にいた人間の目線で、何を考え、どう行動するか。そこに「謎」が生じるのは、それが外側から見たときに「理に合わない」行動だからだ。捕虜となっても常に毅然とした態度を崩さないコーンウェル中尉。誘拐事件により姿を消した伊与田中尉。彼らの真意が解き明かされたとき、逆説的に、それを外側から見る者が縛られた「理」が照射される。ただしそれは、我々読者がもつ戦後民主主義的な「理」ではない。〝戦後の視点〟を排した作品世界を律する、戦地における当時の人間がもつ、戦地における「理」だ。
 戦地における「理」――ここに、本書『いくさの底』が本格ミステリ的な構造を持つに至った、その謎の鍵がある。つまりそれは、『ニンジアンエ』や『中尉』での「個人」へのフォーカスから導き出された、その「個人」を支配する「状況」そのものへの着目だった。
 本書の解決が炙り出すものは、戦地という状況を支配する「歪んだ論理」の存在だ。戦地という、軍の論理に支配されて歪んだ世界において、兵士は個人としての人格を剥ぎ取られ、戦場という盤上に配置された駒である。故に個人の感情や自由意志は軍の論理とぶつかり合い、その世界の歪みを露わにする。
 そして、本格ミステリの世界もまた、謎解きの論理に支配されて歪んでいる。本格ミステリは、作品の全てが人工的な謎解きのための盤上の駒であるが、その登場人物が自由意志を訴えるとき、それは謎解きの論理とぶつかり合い、人工的な世界の歪みを露わにする。なぜ凝ったトリックを用いて殺人を犯さねばならないのか、名探偵には犯人を断罪する権利があるのか。名探偵は真実に辿り着くことが可能なのか、推理は聞く者を説得できれば真実でなくても良いのではないか――。
 そう、人間が駒としてしか扱われない世界で、人間の自由意志が世界の論理とぶつかり合うところに、戦争小説と本格ミステリが交叉するのだ。『いくさの底』の「戦争ミステリ」としての成功とは即ち、本格ミステリと戦争小説の間に、「世界を支配する『歪んだ論理』に抗う人間を描く小説」という交点を発見した点にこそある。これは本格ミステリからデビューし、ミステリ的な技巧を用いて戦争小説を書き続けてきた古処誠二だからこそ辿り着きうる必然的な交点だったろう。
 そして、そのような「歪んだ論理」は、実は世界のどこにでも存在しうることを、本書を読んだ私たちは了解せざるを得ないだろう。個人が組織の論理の犠牲になる――そんな事例が、いつの世にだって溢れかえっていることは、最近のいくつかの事件を想起するまでもなく、私たちは知っている。
 人工性の極みのような本格ミステリという形式は、しかしその人工性ゆえに、世界の歪みに圧殺される個人の叫びを炙り出しうる。『いくさの底』が示したのは、そのような本格ミステリの可能性でもあるのだ。

 現代に生きる我々読者は、小説を読むとき、現代に引きつけて考えずにはいられない。だから本書も、「ここに描かれる戦争の生んだ歪みは現代社会のアナロジー」だとか、「今だからこそ読まれるべき戦争小説」などとつい言いたくなってしまう。だが、古処誠二が本書から〝戦後の視点〟をストイックに排除したその姿勢を踏まえれば、そうした評価は不適切と言うべきだろう。本書に描かれる「歪んだ論理」を現代に引きつけて考えること自体、〝戦後の視点〟の産物でしかない。
 何十年後かの読者が本書を読むとき、ある読者は優れたミステリとして読み、ある読者は優れた戦争小説として読み、ある読者はその時代の社会と並べて考えながら読むだろう。故に本書は「現代社会にも通じる」だとか、「今だからこそ読まれるべき」ものなどではない。いついかなる時代、あらゆる場所に通じ、読まれていくべき作品なのだ。

カリカチュアされた変格探偵小説――『粘膜蜥蜴』

野地嘉文

 角川ホラー文庫の『粘膜蜥蜴』の解説で、杉江松恋は「こんなに心を支配される小説の書き手は、他にいない」と飴村行を評し、「読者が触れられると嫌な場所にまで手を伸ばしてくる」と指摘している。エンターテインメント小説は心を揺さぶられることを期待してページを捲る娯楽であるが、不快感を刺激することでエンターテイメントに昇華させる小説は江戸川乱歩や筒井康隆の一部の作品、あるいは沼正三の『家畜人ヤプー』を思いつくぐらいで、私には多くを挙げることができない。不快感はできるだけ避けたい感情なだけに、不快感を愉しむ『粘膜蜥蜴』の読書体験は、ほとんどの人にとっては未知の領域に没入する行為だろう。だが、恐怖や禁忌さえエンターテインメントの題材になるように、不快感もまた極上のエンターテインメントとなり得ることを本作は改めて証明している。
 舞台は軍国主義に染まった戦前の日本である。全体が三つの章にわかれており、第壱章では、主人公である月ノ森雪麻呂の傍若無人な振る舞いが語られる。名士の御曹司である彼は、月ノ森家の絶大な権力を背景に、国民学校初等科の同級生をいたぶる。見返りを期待する同級生も彼のいうなりで、そこにはいじめの構造が生まれている。精神的に未成熟なまま権力を手中にすると、権力の効果をとめどもなく確かめたくなるし、権力者に迎合する側も、いったん暴力を受け入れてしまうとそこで思考が止まり、互いに歯止めが効かなくなる。本作は上位者によるハラスメントと、権力者におもねる卑小さを容赦なく暴き出している。それでもページから目をそむけることができない。弱者をいたぶる雪麻呂の破天荒な言動は意表をつき、『週刊少年ジャンプ』黄金期を支えた宮下あきらのマンガ『魁!!男塾』のような荒削りなユーモアさえ感じられ、次第に不快感に心を浸食されていく。
 雪麻呂には富蔵という爬虫人の下男がつき従っている。爬虫人とは、東南アジアにあるナムールという国の密林に生息するヘルビノという、もうひとつの人類である。彼らは高い知能を備えているが、人間としてみなされておらず、労働力や、雌に関しては性的な愛玩具として日本に輸入されている。日本で育った富蔵は軍国主義に染まっており、いつかは大日本帝国の軍人になりたいと熱望している。その設定がアメリカの黒人奴隷制度、戦前の日本の植民地政策、あるいは今も存在する人身売買など、さまざまな負の記憶を刺激する。
 モラルにナイフを突き付け、神経を逆なでするエピソードが矢継ぎ早にあらわれ、平静を保つことが難しい。まるで致死量ぎりぎりの毒薬を飲み干すように心を痛めつける。自分の精神はどこまで耐えられるのか、さながら神経のチキンレースである。「読了した者は、数時間以内に、一度は精神に異常を来たす」というのは角川文庫版の夢野久作『ドグラ・マグラ』の帯に記されたキャッチコピーだが、精神に異常をきたすという称号は『ドグラ・マグラ』よりむしろ『粘膜蜥蜴』にふさわしいように感じる。精神が削り取られて読むのがつらい。つらいが、しかし、その感情はどこか快楽でもある。国民学校の友人、堀川真樹夫だけが雪麻呂に対して批判的な態度を保ち、彼の視点に寄りそって読むことでかろうじて理性を保つことができる。
 第弐章は一転して、堀川真樹夫の兄である美樹夫が主人公となる。彼もまた、真樹夫と同様に異常人ばかりの登場人物のなかではまっとうな感性を持った人間である。軍人としてナムールに駐在する彼が、軍の命を受け、現地で阿片を栽培している間宮勝一をゲリラや肉食ミミズの襲撃から守り、チャラン村に送り届けるという冒険譚が第弐章のストーリーである。
 ハガードの『ソロモン王の洞窟』やスティーブンソンの『宝島』に端を発する秘境冒険小説は日本に流入すると、国枝史郎の『沙漠の古都』を嚆矢として、以降、小栗虫太郎の『人外魔境』、橘外男、香山滋の作品のように、冒険よりも異端幻想の要素が強調されるようになった。第弐章では、秘境冒険小説の要素を残しながらも、高度な精神文明を持つ爬虫人との交感の場面が美しく描かれ、本書が異端幻想小説の直系でもあることを証明している。
 雪麻呂以上に傍若無人な間宮勝一の振る舞いによって、悪夢はさらに深みを増していく。山田風太郎の忍法小説や友成純一、あるいは『週刊少年ジャンプ』に掲載された永井豪の『ハレンチ学園』で終盤を飾るハレンチ大戦争を思い起こさせるような残虐なユーモアをまといつつ、人命は極端に軽く扱われ、人体損壊の描写が執拗に繰り返される。
 第参章は雪麻呂が心を寄せる従姉妹、魅和子との恋愛譚で幕を開け、一転して愛と憎しみの物語に変貌する。雪麻呂の暴君ぶりはなんら第壱章のときと変わってはいないが、第参章まで読み進めてきた読者は暴力的な描写に感覚が麻痺し、彼が撒き散らす毒がさほど気にならなくなっているかもしれない。少なくともここまで読み進めた私はまるでストックホルム症候群にかかったかのように、雪麻呂の純情にほだされ、彼のことを好意的に見られるようになっていた。
 やがて物語の終わりで明かされる結末には、胸を突かれる。それまでの物語が黒い哄笑に満ち溢れていただけに、ラスト一行とのギャップは大きく、まさに〝最後の一撃〟の破壊力で読者の意表を突き、精神にとどめを刺すだろう。読後感は哀しい。
 読了後の衝撃から立ち直ったら(あの不快感を再度味わうのかと気が進まないかもしれないが)、できればもう一度冒頭から読み直して欲しい。ところどころに伏線が見え隠れしていることに気づくと思う。雪麻呂とある登場人物とのやりとりには、その背景に狂おしいばかりの感情が潜んでおり、虐げる者に対して限りない愛情を抱きながらその暴力を含めて受け入れる、倒錯した巨大な包容力が宿っていることに思い当るのではないだろうか。
 二〇〇九年に角川ホラー文庫から書き下ろしにて刊行された『粘膜蜥蜴』は、ホラーというレーベルが冠されているが、舞台が戦前の日本であることも手伝って、戦前に隆盛を誇った変格探偵小説を思わせる作品である。変格探偵小説は人の心の闇に潜む欲望を暴きだすエンターテインメントだった。作者の過剰な欲望が露わになると、検閲を恐れた編集者によって一部を伏字にして雑誌掲載された例も少なくない。ページ全体が伏字で覆い隠された小説もあり、当時の読者は作者の欲望の奔流を想像力で補って読むしかなかった。それでも読者は禁忌に触れる快楽をやめることができず、読む〝危険ドラッグ〟のようにむさぼり読んだ。
 戦後は検閲が廃止されたが、変格探偵小説というジャンルが振るわなくなってしまった。抑圧に対する抵抗がかえって変格探偵小説を盛り上げていたという側面があったのかもしれない。だが、人の心に闇がある以上、ジャンルとしての価値を失ったわけではなく、着実に脈流を保ち、現在でも時折、抜きん出た作品を噴出している。
 第六十三回日本推理作家協会賞長編および連作短編部門を受賞した粘膜シリーズの第二作『粘膜蜥蜴』は、戦前の変格探偵小説をカリカチュアされた演出のもとに甦らせ、読者の精神を怪しく惑わせる怪作である。心の闇をエンターテインメントとして楽しみたい読者に読んでほしい。本作を読んでさらにこの世界に浸りたければ、第十五回日本ホラー小説大賞長編賞を受賞したシリーズ第一作『粘膜人間』を手にとってもいいし、本作に続く第三作『粘膜兄弟』に進んでも構わない。六年ぶりの最新作として、二〇一八年五月に出たばかりの五冊目の『粘膜探偵』に飛び、異形の謎解きに酔いしれてもよい。粘膜シリーズは世界観は共通しているものの、物語はそれぞれ独立しているため、どれから読んでも差し支えない(ただし、短編集『粘膜戦士』だけは第一作から第三作までを読んでから手をつけたほうがよいだろう)。
 もし、途中でやめられなくなってしまったら、それは粘膜依存症にかかった証拠である。花柳病のようにいかがわしい響きで口にするのが恥ずかしいが、罹患を恐れて読むのを後回しにしていると、いつか読めなくなる日がくるかもしれない。戦前のような検閲制度こそなくなっているが、社会の風潮に忖度して作者自身と編集者による言葉狩りや表現の自粛は増加する一方である。このまま自主規制の対象が拡大していくと、未来には心の闇に潜む欲望をエンターテインメントとして楽しむことができなくなってしまうのではないかという不吉な予感がする。第一作『粘膜人間』に登場する〝グッチャネ〟は性行為の言い換えとしてイメージ喚起力に優れた造語であるが、グッチャネがまるごと伏字に置き換えられてしまう日がいつか来ないとも限らない。グッチャネが×××××となってしまったらおもしろさは半減してしまうし、そもそも常人には×××××という伏字からグッチャネという表現を導き出すことはできない。グッチャネはグッチャネのままでいて欲しい。その日が訪れることがないよう、世代を超えて読み継ぐことが、社会と出版社(そしてもちろん作者)に対する最高のアピールになる。モラルの水準があがってしまった現代をあざ笑う粘膜シリーズを読むべきは今である。読めなくなってから闇を欲しても、もう遅い。

[奨励賞]
見えざる悪意、形式と「光」の歪み ―貫井徳郎『乱反射』―

荒岸来穂

 第63回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門の選評の中で、ひと際目を惹かれるのは、北村薫による貫井徳郎『乱反射』への熱烈な賛辞だろう。他の選考委員が「どの登場人物も一面的な『非常識な人間』としか描かれていない」(赤川次郎)、「推理の妙味も欠ける」(歌野晶午)といった否定的意見も述べる中、北村は『乱反射』が「登場人物のほとんどが犯人」である英国の某長編への挑戦作であると指摘し、「英国の古典の主旋律が、現代の東洋において見事な変奏を奏で」た「小説の衣の下に、《本格》の鎧を見事に隠した作」だと評価した。
 貫井自身の「受賞の言葉」も「この作品をミステリーだと主張しても、理解してくれる人は少ないだろうという諦念から、ノンミステリーだと韜晦気味に宣言していた」が「これをミステリーとして読んでもらえたのかという嬉しい驚きがあった」と述べており、北村の「本格としての『乱反射』」評価を、自身の企みが伝わったこととして歓迎しているようである。
 しかし、この北村の選評には、単純に『乱反射』を本格として捉えるには「歪み」が生じてしまうような一節がある。北村は、この変奏が「世界が犯人となる」という「『虚無への供物』に通じる、社会を──世を見つめる眼を持つことによって達成した」ものだと論じる。この『虚無への供物』に通じる「世界が犯人」という発想、ここだけを切り出せば、多くの人は『乱反射』を「アンチミステリ」だと受け取るのではなかろうか。
 何も「アンチミステリとは何か」、「本格とは何か」といった論をここで展開したいわけではない。しかし一つだけ主張しておきたいのは「アンチミステリは本格の形式性を過剰化し、それによって形式を逸脱した作品群である」という認識を私は持っている。その点で本格とアンチミステリは裏表の関係にあると言っていいだろう。では、アンチミステリのようにも読める『乱反射』は、本格のいかなる形式性を逸脱しているのだろうか。

 『乱反射』のトリックを、一言で評すなら「バタフライエフェクトによる殺人」と言えるだろう。倒木によって命を失った幼児、一見すると単純な事故だが、この事故の裏側には多くの人々の小さな「罪」が重なって起きたものであった。急患でもないのに夜間診療を利用する大学生、犬のフンを片付けない老人、清掃業務を怠った公務員……。様々な人々の些細なモラル違反が重なった結果が、幼児の命を奪う「殺人」となったのだと、幼児の父である加山は突き止めていく。加山は彼らに罪の意識を問う。しかし彼らは口を揃えて「私は幼児を殺していない」と責任を認めない。
 誰もが犯したことがあるようなモラル違反が、ドミノのように連鎖し命を奪うまでに到る、その発想と構成力だけを評価することもできるだろう。しかし北村が『乱反射』を評価したのはこの先の展開のためであろう。加山は事故の全貌を明らかにするも、ほとんどの人が罪を認めず、法の裁きを与えることが出来ず憤る。しかし、ふと彼は気づく。自身も小さなモラル違反をしていたではないか。そうである以上、彼自身が事故の原因となった彼らと同類であり、彼らを責める権利などなく、むしろ自身も我が子を殺してしまったという罪の意識を持つまでに到る。
 『乱反射』は「誰でもしたことあるような些細なモラル違反が、知らないところで殺人に繋がってしまいかねない」という形式(あるいは命題)を描くことで「登場人物全員=世界が犯人」を成立させたのだ。
 
 しかし、アンチミステリ的な結末は、いや、アンチミステリ的な結末だからこそ、読者にある思いを抱かせる。「犯人は本当に、加山を含む彼らなのか?」と。
 
 加山が自身の犯したモラル違反に気づくことで、「世界=犯人」というトリックは成立している。加山も「バタフライエフェクト」によって、幼児の事故に実は関連しているかもしれない。しかし、そもそも加山のモラル違反は、他の人々のものとは違って幼児の死との係わりを説明されていない。ある種「不完全な真相」を、読者は最後に提示されるのである。読者は、加山が犯人なのか審判しなければならない立ち位置にいる。それは「バタフライエフェクトによる殺人」というトリックを認めるか、さらには「世界=犯人」というトリックを認めるかという判断と同義である。
 
 真相を宙づりにして読者に判断を迫る。全てがラストで明らかになるミステリの基本形式は、実はここで侵犯されている。ところで、この形式は他の貫井作品でもっと露骨に行われている。その作品こそ『プリズム』だ。
 『プリズム』は奇妙な構造をした作品である。四つの章からなる作品で、小学校の女性教師の死の真相を巡って物語が進んでいく。第一章の主人公である小学生たちは推理によって同僚の女性教師を犯人と指摘する。しかし第二章ではその女性教師が視点人物となり、犯人を探し出そうとするのである。第三章も第二章で指摘された人物が真相を探ろうとし、最終章の第四章では第一章の小学生を犯人と指摘して物語が終了するのだ。
 『プリズム』は全視点人物が他の視点人物を犯人だと指摘し、結局真犯人は明かされない。この作品も『乱反射』同様、真相は宙づりになったまま読者自身が真相だと思うものを判断しなければならなくなっているのだ。
 『プリズム』は、作者があとがきで『毒入りチョコレート事件』などに言及していることからも分かるように「多重解決」を通じて「本格」の可能性に挑戦した実験的作品である。一方の『乱反射』は「ノンミステリー」としても読めるようなリアリティ重視の作品で、両者は対立するように見えるが、実はこの点で共通項がある。
 この奇妙な構図をした二作品は、他にも共通項を持つ。犯人の「悪意」が描かれないことだ。
 『プリズム』は犯人が確定されていない以上、当たり前だが犯人の悪意を描けない。各章ごとに(次章で否定されるものの)犯人とともに動機は指摘されるが、解説の小池啓介が指摘するように、視点が変わることによって「被害者像」が多面的に描かれることで、被害者に向けられる「悪意」はどれも読者が納得するような説得力を持たなくなっている。
 『乱反射』において犯人とされる人々は、被害者である幼児に誰一人悪意を向けていない。偶然の連鎖によってその死に関わってしまっただけなのだから。誰も悪意を持っていないからこそ、全員が事故の責任を逃れようとしているのだ。
 
 この二作品の「悪意の不在」が意味するものはなんだろうか。一見すると単なる偶然にも見えなくないが、もう一つの共通項にも目を向けてみると、その意味が明らかになる。その共通項とは、なんのことはない、タイトルがどちらも「光を曲げる」ことに関連した単語だということである。
 ところで、ミステリ、推理小説における「光」とはどのような意味を持っているのだろうか。それは「事件に光明が差す」というどこかで一度は聞いたフレーズのように、「謎」を探偵が推理、捜査によって明らかにしていく様ではないだろうか。探偵のまなざしこそが光であり、この光によって隠された闇が明らかになっていく。この「闇」の根底にあるもの、それこそ「悪意」である。事件の真相は犯人が指摘されるだけでなく、その「動機=悪意」まで明らかにされて、初めて全貌を表す。犯人が指摘されても、犯行の動機が分からないままでは多くの読者は納得しないだろう。
 では、その「光」が、プリズムを通して屈折し、または乱反射してあらぬところに差してしまったら?この曲がった光は悪意を照射できるのだろうか?
 これはあくまで比喩的な表現ではあるが、この二作の特徴を表したものだ。古典的な推理小説の枠組みでは効果を発揮する光も、貫井作品のような逸脱した形式(アンチミステリ!)において、その光は屈折し、闇である「悪意」を照らせない。犯人の指摘がループする多重解決、「世界=犯人」というトリック、このような仕掛けを中心に据えた両作品は、普通のミステリとは異なる歪んだ形式の作品である。歪んだ形式を通過した光は屈折し、悪意に光が当たることはない。そのために、読者は自分で真相を判断せねばならないのだ。悪意に光が当たらない貫井の作品を、自身の手で引き受けるために。
 思えば貫井のデビュー作『慟哭』でも連続幼女誘拐殺人の「真犯人」は逮捕されず、犯行動機は不明のまま物語は終わる。それでもミステリとして成立しているのはこの作品にあるトリックが仕掛けられているため、物語の形式を歪める形で解決を提示しているからだ。貫井は『貫井徳郎症候群』の「作品について一言」で「処女作にはその小説家のすべてが詰まっていると言いますが、私の場合はまさにそうだと思います」と述べている。悪意を描かずにミステリとして成立する形式を構築しようという意志は、デビューからのものだったのかもしれない。
 では、なぜ貫井は悪意の描かれない物語を紡ぐのだろうか。円堂都司昭は「現実感の裂け目の不条理」(『「謎」の解像度』)で貫井がインタビューで「勧善懲悪というものを信じていない」と複数回述べていることに注目し、貫井が「絶対的な正義による解決を信じるような特定の現実感には違和感」を覚えていると指摘する。「絶対的な正義による解決」への疑義が「光」を屈折させる歪んだ形式を構築させたのは一目瞭然だろう。円堂も指摘しているが、貫井のリアリスティックな筆致とゲーム性の高い作風は、一見対立するで実は同一の世界観にある。その世界観の極限が、万華鏡のように「ノンミステリー」、「本格」、「アンチミステリ」と、(作中の「犯人」と同様に)読者の読み方によって姿を変える『乱反射』なのではないか。

第三回

 第三回(二〇一八年三月末〆切)の評論・書評募集には、十五篇の応募があった。対象作品が旧作に偏らず時代の幅が出てきたこと、評論を取り上げたものもあることなど、前回からの質的な拡大が見受けられた。書評形式の作品にも秀作が多かったのも、嬉しい変化である。選考はこれまでと同様、今野敏、柴田よしき、西上心太、杉江松恋の四名が担当した。
 事前に作品を読んできた四名が作品毎に自分の評価を述べるところから選考は始まった。その結果最高点となったのが松嶋文乃氏「“時の流れ”を生きる“女性”――北村薫『夜の蝉』及び『スキップ』をめぐって」の受賞がまず確定、続いて複数の応募作がすべて高評価を得た野地嘉文氏の「竜崎伸也の捜査法――『果断 隠蔽捜査2』」が同時受賞に決まった。
 松嶋作品は、北村薫〈円紫さんと私〉シリーズの共通主人公である〈私〉を評論の切り口とし、そのキャラクターは何を目的として造形されたものかを掘り下げていく内容であった。他の北村作品を論の補強に用いる周到さもあり、一本芯の通った論旨が魅力的である。選考委員からは、文庫解説に付いていたらこの上なく嬉しい文章という評価もあり、何より作品を読ませる気になる、書評としての機能が充実している。
 野地作品もまた、今野敏〈隠蔽捜査〉シリーズの主人公・竜崎伸也に焦点を当てた評論であるが、ジャンル内のジャーゴンにとらわれずにリスクマネジメント理論などの概念を採用し、それをもって竜崎という人物の魅力を解析しきった点に斬新さがあった。こちらの文章も、もしこれがビジネス書に掲載されていたら一般の読者に訴えかける書評となっていただろうと確信させられるものがあり、書評としての強さがあった。その熱さでは応募作中随一である。
 この二作の他に、秋永正人氏の『香菜里屋はベータカプセルである』が奨励賞に決定した。目を惹かずにはおかない題名からもわかる通り、企みとユーモアに満ちた筆致で北森鴻『花の下にて春死なむ』を評した意欲作である。ただし単なる飛び道具ではなく、北森作品の複数シリーズに言及したガイドにもなっており、何より作者への愛が籠ったファンレターになっている点が好ましい。
 応募作全般に共通した傾向として、思いつきのみで書かれているものが多いという印象を受けた。独自の着想は大事である。だが、それが史実と矛盾していないか資料によって確認し、論の構造に脆弱な点はないか客観的な視点で検討するなど、構想時点における足元固めは非常に重要である。

竜崎伸也の捜査法――『果断 隠蔽捜査2』

野地嘉文

 ミステリーは大人の読み物としても定着していたはずなのに、自分自身が年齢を重ねてみると、共感できるシリーズ探偵を起用したミステリーとなると意外と少ないことに気づく。話題のミステリーに出てくる探偵は若造だったり、同世代であっても現実感が感じられず感情移入できる存在ではない。人生の断面を活写するような作品も味わい深いのだけれど、シリーズ探偵の魅力は忘れがたいものがある。フロスト警部やハリー・ボッシュなど、翻訳にはオジサン受けするシリーズ探偵が登場する作品は多いのに、日本のミステリー作家は若者だけを対象としているのかなと寂しく思っていた。
 竜崎伸也は、そんなときに現れたヒーローである。
 このシリーズは第二十七回吉川英治文学新人賞を受賞した『隠蔽捜査』からはじまる。今野敏はシリーズの多い作家だが、二作目からは「捜査の隠蔽」をテーマにしていないことから、『隠蔽捜査』は当初から連作を想定して書かれたものではないように思われる。既に指摘されていることではあるが、第一作の『隠蔽捜査』は、警察庁長官官房総務課長である竜崎伸也の警察官僚としての苦悩を縦軸に、家族の不祥事を横軸として、仕事と家庭の両面に筋を貫き通すことができるかを描いた、企業小説と家庭小説のハイブリッドともいえる作品である。犯罪捜査は物語の背景に留まっている。捜査畑に属さない主人公を描いた警察小説は、ほかに横山秀夫がD県警の警務課を舞台にした連作『陰の季節』があるが、『陰の季節』があくまでミステリーとして書かれているのに対し、『隠蔽捜査』はミステリーのフォーマットを使って、違うジャンルの主題を描いたところに独自性があった。
 ただ、第一作は警察小説としては変化球というべきで、同じ路線のままでシリーズ化をはかるのは限界があったろう。物語の最後で竜崎が新天地に赴くことが示され続編を匂わせて終わるが、シリーズが確立したのは竜崎が現場の指揮官としてふるまう二作目『果断 隠蔽捜査2』からであるといえる。
 ガボリオの『ルコック探偵』という先例があるにせよ、警察官を探偵役に据えた嚆矢は事実上、F・W・クロフツである。クロフツはそれまでの天才的な名探偵と異なり、関係者を訪問しながら事実を確認していくという捜査方法を描いた。袋小路に入った場合はもう一度、検証をやり直す。それまでの天才型名探偵が物語の結末に至るまで読者に推理した内容を明かさなかったのに対して、捜査の行き詰まりを含めて過程を読者に隠さず明らかにするクロフツの手法は、臨場感を読者と共有できるメリットがあった。時には真犯人が仕掛けた罠におちいり、無実の人間を誤認逮捕してしまうこともある。探偵としてのエラリー・クイーンはしばしば犯人が残した偽の手掛かりによって惑わされたが、その苦悩はクイーンだけのものではない。
 この手法は警察小説だけでなく、ハードボイルド小説にも踏襲され、現在でも隆盛を誇っているが、『隠蔽捜査2 果断』ではそのプロセスにメスを入れている。竜崎は犯罪捜査にあたって意思決定をする際、全体の流れを見通し、今後発生が見込まれる不確定な事象や優先順位を考慮した上で検討をおこなう。複数の選択肢を設定し、原理原則をメルクマール(指標)としてその時点における最良の選択をする。竜崎はエラリー・クイーンのように証拠の真偽について悩んだりはしない。彼は現時点で手元に集まっている情報に基づいてベターと思われる判断を下すだけである。極端にいえば、あとになってその判断が誤っていたことが判明してもやむを得ないとする。その場合は改めて新しい判断を行ない、軌道修正をしながら徐々に正解にたどりつけばよい。彼は完璧なメンタルコントロールでミスを引きずることがなく、目の前に立ちはだかる難問を的確に対処する。
 本作でも、犯人が実弾を込めた拳銃を保持しているという事前情報に基づき、竜崎はSATに発砲許可を与えた。SATは犯人を射殺するが、その後、犯人が持っていた拳銃には実弾が込められていなかったことが判明する。無抵抗の犯人を射殺したのではないかと竜崎はマスコミの非難にさらされるが、竜崎はその時点で最良の判断を下したと考えて動じない。普通の人間ならば自分が正しいと思っても、組織の軋轢のなかで迷う。しかし竜崎はぶれない。
 やがて敏腕刑事の戸高から、ある疑義が呈示されると事件の様相が変化したと判断し、事案は既に送検されてしまっていたにもかかわらず、竜崎は事件の見直しを命じている。そして最終的には真相にたどりつくのである。物語の最後では、決定的な証拠を突きつけられた真犯人が自供したことが記されており、紆余曲折の末にたどりついた結末が正しいことが読者に知らされる。竜崎の判断がベターからベストに変わる瞬間である。
 正しい意思決定をおこなうためにプロセスを可視化し、とりうる選択肢とその結果の関係をその分岐の判定ごとに階層化してツリー構造で表現することを、リスクマネジメントなどに使われている決定理論の用語でディシジョンツリーという。竜崎の採る方法は、このディシジョンツリーを応用した問題解決であり、竜崎は捜査官というよりもロジカルシンキングを駆使するコンサルタントか非凡な経営者のようである。対象を分析する際に抜けがないようフレームを定め、そのなかで洩れなくダブリがないよう選択肢に分解する。そのように最善の意思決定を導き出す方法は、実生活に応用可能な探偵方法だといえる。
 この方法論の要点は分岐ごとに適切な判断を下していくということにあるから、ほとんどの場合、竜崎自身は推理をしない。どのようにすべきかという選択肢はそれぞれの専門家から提案を受け、竜崎は優劣を適切に判断していく。目の前の情報で判断を下すこの方法論は、現在進行形の事件においてもっとも威力を発揮する。本作でも竜崎は立てこもり事件の前線本部長という責任者のポジションにつきながら、犯人との交渉の指揮は経験豊富なSITに委ねてしまう。さらに、犯人が交渉に応じないとみるや、伊丹刑事部長の反対を押し切って、突入をSATに命じる。犯人との交渉は自分よりもSITのほうが長けているし、現場への突入は専門の訓練を受けているSATのほうがSITよりも優れているという判断である。さらに本作において、事件の解決に直接結び付く推理をおこなったのも大森署の戸高刑事である。竜崎はここでも専門家を尊重するという態度を崩さず、提案された推理を吟味して採用可否を決定する。必要と思えば現場に足を運ぶこともあるが、それも現場を知らずに机上の空論を元にして誤った判断を下さないよう、情報にもっとも近い場所に身を置くという理由からである。主人公自らが推理を行わず、部下を使いながら解決に至る例として、ほかに麻耶雄嵩の『貴族探偵』があるが、『隠蔽捜査』シリーズはシリアスな相似形ともいえる。
 第一作と異なり、ミステリー小説としての比重が高い『果断 隠蔽捜査2』ではあるが、その一方で、第一作と同様に家庭小説としての要素もあり、本作では妻の病気が重要なテーマになっている。本作では胃潰瘍のため彼女が倒れ、生活面を妻に頼っていた竜崎は狼狽する。野間崎第二方面本部管理官や小田切首席監察官が投じる難題にはなんなく対処できるものの、さしもの竜崎も妻の病気には情報量の少なさが災いして、的確な判断を下すことが難しい。それでも竜崎が判断基準としている原理原則はどんな事案もさばくことができる万能の剣であり、一時的には彼を惑わせることがあっても最終的には解決にいざなう。
 根拠のない慣習や組織のしがらみにしばられず、目的を達成するために最適な手段を躊躇なく選択する竜崎は、一見、マキャヴェリズムの信奉者のようにもみえる。しかし、竜崎は国家公務員として国家の運営に対して義務を負っているという立場を崩さず、国家の下僕として振る舞い、極めて高いモラルに従って行動することで独善的な判断から免れている。
 一方、彼の幼馴染である伊丹刑事部長は、より身近な存在である。伊丹は警察組織では大きな権力を有しているものの、軋轢に悩み、周囲に対して忖度し、根回しを行い、時には保身に奔走するなど、読者にとっては自分自身の投影をみるようである。その伊丹が竜崎とバディを組みながら、ともに成功にたどりつくことが読者にはなにより嬉しい。
 二〇〇七年に書き下ろし刊行され、第六十一回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門と、第二十一回山本周五郎賞を合わせて受賞した『果断 隠蔽捜査2』は組織の中で能力を発揮するヒーローを描き、社会や家庭で難題を抱えて惑う読者を勇気づける小説である。

〝時の流れ〟を生きる〝女性〟―北村薫『夜の蝉』及び『スキップ』をめぐって―

松嶋 文乃

 一九九一年に「第四十四回 日本推理作家協会賞 短編及び連作短編集部門」を受賞した『夜の蝉』は、北村薫のデビュー作『空飛ぶ馬』に引き続き、国文科の女子大生「私」が出会う〝日常に潜む謎〟を、飛び抜けた記憶力と洞察力を持った落語家、春風亭円紫さん―本シリーズの安楽椅子探偵―が丁寧な手つきで、時にペダンチックに解決していくミステリーである。本作以降、『秋の花』『六の宮の姫君』『朝霧』『太宰治の辞書』の四作が刊行されている。
 この「円紫さんと私」シリーズ全体を通して、ワトソン役の主人公「私」は聡明で、非常に魅力的な女性―作者自身もそう断言して憚らない―として描かれている。日々の生活の中で、本を読むことを何よりの喜びとし、人として〝正しく〟生きることを自分に課している。シリーズ全てのカバーイラストを担当する高野文子が描く「私」像が象徴的だ。それぞれの年齢で鮮やかに切り取られているのは、凜とした面差しで真っ直ぐに遠くを見つめる横顔。短編「夜の蝉」で幼稚園児「トコちゃん」が発する「―おねえちゃん、びじんだね!」の一言に大きく頷く。ところで、シリーズ最新刊となる『太宰治の辞書』は二〇一五年に、なんと前作から十七年を経て刊行され、多くのファンを驚喜させた。このシリーズは、そして「私」という女性は、なぜこんなにも人を惹きつけてやまないのだろうか。連作『夜の蝉』の書評―前作『空飛ぶ馬』にも言及しつつ―はこの問いから始めたい。
 一般的に見れば「私」は〝まだ〟二十歳。それにも関わらず、「私」は密かに「自分の人生の形が見えないといういらだち」「不安」を抱えている。彼女が常に本から手を放さないのは、そして事あるごとに本の話題を口にするのは、先人が築いてきた地に足をつけて生きたい、そして終わりのない学びの末に何事かを成し遂げたいという、おぼろげながらも確固とした意志ゆえなのだろう。随所に見られる、彼女のあまりにも純粋な好奇心と向上心は、読んでいてとても眩しい。
 そして「私」が大学生として、もう一つ抱える「内心、忸怩たるもの」は〝女〟であることに対する自意識。つまり〝恋〟の問題。「《恋》には理屈を超えた魔力みたいなものがあると思う。」という恋愛観を持つ「私」はまだ本当の恋を経験したことがない。そういう意味で「《子供であること》」に対し、「焦燥に近い哀しみ」を感じることもある。しかし、幼い頃から「明るい赤のドレス」が似合い、「触ったら、手が切れちゃいそう」なくらい美人の姉が、口紅を引いて早々に〝女〟となっていった時の父の淋しさを知っている「私」は、一歩前に踏み出せない。父を慮る気持ちもあれば、非の打ち所のない姉への引け目も併せ持つ「私」。二十歳の「私」は様々な思いの中をゆらゆら揺れている。
 『夜の蝉』は、このような「私」の〝性〟をめぐる葛藤を正面から扱った連作である。例えば「私」が初めて小さな〝恋〟の体験をする短編「朧夜の底」。「私」は友人の「正ちゃん」が入っている詩吟サークルの発表会で見かけた「安藤さん」と呼ばれる男性を咄嗟に「格好いい」と感じ、その場の流れで本を借りることになる。話をしてみて、「この人は間違いなく私より本を読んでいる。」と嬉しくなった「私」は、小娘なりに精一杯背伸びして文学談義を交わす。そんな交流が、「正ちゃん」の些細な悪戯心がきっかけの独り相撲だと知った時の落胆。そして恥ずかしさ。恋をまだ性愛以前のプラトニックなものとしてしか捉えられない彼女には、本当の恋はまだ早いのだ。一方、仲良し三人組でいつも《ぶたばらのしょうがやきていしょく》を食べていた友人「江美ちゃん」は「私」の知らないうちに穏やかな愛を育み、短編「六月の花嫁」で結婚を決めた。どうやら「正ちゃん」にも冗談ごとではなく男性に「押さえつけられ」た体験がありそうだ。「私」は友人達に比べ、一歩も二歩も後ろにいる。
 そんな「私」に〝女性〟としての目覚めを経験させるのが姉、表題作「夜の蝉」での出来事である。短編としても評価された「夜の蝉」は、「私」が帰宅途中の姉の「光のない、夜のような顔」を見てしまったお祭りの晩から始まるミステリー。姉と、社内恋愛をしている恋人、そして新入社員の女の子から成る三角関係をめぐって、ある不可解なトラブルが発生し、恋が終わったことをやけ酒をあおる姉から聞いた「私」は、例によって円紫さんに謎解きを持ちかける。一体三人に何が起こったのか、円紫さんの鮮やかな推理の末、それはボタンの掛け違いなどではなく、明らかに作為的なものだと知った「私」。「《お化け》は確かに出たのである」という一文に辿り着くまでの経過が、一気に読ませる。そして背筋が寒くなる。何かを欲した人間が、どこまでも残酷になれるという事実に。
 謎解きの結末が、苦いものだった―人間の悪意という目を覆いたくなるものが剥き出しになった―という短編は、既に『空飛ぶ馬』に「砂糖合戦」「赤頭巾」がある。「赤頭巾」の結末で「はっきり醜い男と女」の姿を知ってしまった「私」。続く短編「空飛ぶ馬」の冒頭で「今までのショートカットを更にばっさりやった」ことがさらりと書かれているが、これが自らも抱える〝性〟の否定であることは言うまでもない。こう読んでいくと、「私」は痛ましいくらい潔癖な女性、いや少女なのだ。救いは、「空飛ぶ馬」事件の結末が心温まるラブストーリーであったこと。その夜、私は思う。「今夜は丁寧に髪を洗おう。」「―それまでは、雪よ、私の髪を飾れ。」と。こうした経緯があり、「私」は再び髪を伸ばし始める。「夜の蝉」で姉が酔っ払っていた晩、こんな出来事があった。「私」の髪形を見た姉の「伸びたじゃない」という指摘と「まあまあかな」という評価。そして「ねえ、口紅塗らない?」という誘い。拒否するも、姉は薬指の先を水道の水で濡らし、「透明の紅を私の唇に引いた。」同性同士にも関わらず、そして事実何も起こっていないにも関わらず、ぞっとするほど官能的な場面だ。そして姉をめぐる事件の全てが解決した後に誘われた「最初で最後」の姉妹旅行―おそらくは姉が恋人と行くはずだった―で、「私」が着せられた「明るいオレンジ色のタンクトップ」。尻込みする「私」に姉は言う。「似合うんだよ、あんたに」。鏡に映る「羞ずかしいほど見事に女である私」を引き出してみせたのは、小さい頃からある種のわだかまりを感じていた姉であったのだ―。
 未だ本物の恋を知らぬ、しかし女性としての魅力において決して引けを取らない「私」。そしてどこまでも純粋な恋愛観と人生観を持つ「私」。穂村弘は北村薫という作家について「怖ろしいほどの理想主義を感じる」というが、まさにその理想主義を具現化したのが「私」という存在なのだ。世の中に完璧なものは存在しない。それ故に人は〝完璧〟に憧れを持つ。人生の階段を上り、きれい事だけでは生きてはいけないことを知ることで、一層。先の問いに答えよう。このシリーズがここまで長く読み継がれ、「私」という女性が多くの人に愛されるのは、私達が手を伸ばしても届かない〝理想〟が長い時を隔てても色褪せず存在しているからではないのか。
 さて、本書の献辞は「―時の流れに」。『夜の蝉』は、幼少時からの「私」と姉の隔たりに、一つの〝けり〟がつく連作であった。それは二十年という「時の流れ」を経たからこそ得られたもの。しかし一方で「時の流れ」が人から奪うものも存在することに触れないわけにはいかない。「時」は北村作品の中核をなすテーマの一つなのだ。想起されるのは初期の代表作『スキップ』。作中、こんな一文がある。「誰か、教えてください。時は、取り返すことが出来るのですか。」『スキップ』の主人公「一ノ瀬真理子」は、十七歳から四十二歳の自分へと知らないうちに時を〝スキップ〟し、二十五年というかけがえのない時間を奪われた。今の自分は、知らない男を「夫」とし、〝自分と同じ〟十七歳の娘がいる「桜木真理子」。びくびくしながら鏡を覗き込み、「若さ」という高校生の自分にとって当たり前だったものが失われていることに直面する。父母は既に亡いものになっていた。「そんなことが許されていいのだろうか。(略)時の無法な足し算の代わりに、どれほど容赦のない引き算が行われたのか。」〝スキップ〟は、無論SF的な設定だ。しかし私達は、真理子の思いに、共感を超えて、強く胸を揺さぶられる。それは一つ一つ年を重ねていく私達の誰もが、後ろを振り返って抱く感慨だからだ。「たった一度の人生」で後悔がないはずがない。真理子が、失った可能性の数々を前にして立ちすくみ、飛んできた「今」の世界に困惑するように、私達も日々「もしもあの時こうしていれば」や「今どうしてこうなってしまったのか」の連続を生きている。しかし、北村薫の「理想主義」はそこで主人公を諦めさせない。「私」や、真理子や、私達読者を甘やかさない。「時の流れ」の中で、「私」と姉はこれから新しい関係を築いていくだろう。真理子もまた、「昨日という日があったらしい。明日という日があるらしい。だが、わたしには今がある。」と前を向いて歩いていく。さあ、あなたは―、という声が作品から聞こえてきそうだ。読み返す度に、自分は「私」や真理子に恥じない人生を歩んでいるか、問われているような思いを抱く。「たった一度の人生」というかけがえのない―それ故に何よりも残酷な―「時」を生きる私達に、揺るぎない凜とした姿勢を促す声、それが北村作品の大きな魅力だ。

[奨励賞]
香菜里屋はベータカプセルである ~花の下にて春死なむ~

秋永 正人

 岡山県津山市への取材から戻った北森さんにお会いしたのは二〇〇七年十二月、厳寒の京都だった。
「今度は邪馬台国の話だよ」
 祇園重兵衛(当時)で盃を重ねながら新連載の構想を語る北森さんは楽しそうだった。けれど北森さんにお会いしたのはその夜が最後になった。
 二〇一〇年に急逝した北森鴻の小説の舞台となるビア・バー「香菜里屋」とマスター工藤哲也を主人公に十二年にわたって書き継がれた香菜里屋シリーズの第一作が『花の下にて春死なむ』である。一九九九年に第五十二回推理作家協会賞を受賞したこの作品の舞台「香菜里屋」に私なりの(独断と偏愛に満ちた)解釈を試みる。それがこの小論の目的である。

 香菜里屋とは何か。
 香菜里屋の前に表題の「ベータカプセル」に触れておく。ベータカプセルとは科学特捜隊のハヤタ隊員がウルトラマンに変身するためのアイテムである。ちなみにベータカプセルから発する閃光をフラッシュビームといい、この閃光がハヤタを包みウルトラマンに変身する。(半世紀前の古い話ですいません)
 香菜里屋はベータカプセルであるとは、つまり香菜里屋とは「誰かを」「何かに」変身させるアイテムではないか? 筆者はそう考えた(妄想した)のである。順を追って述べる。
 香菜里屋とは工藤哲也が経営する安楽椅子探偵事務所であり、ビア・バーはその付け足しにすぎない。…などと言えば多くの北森ファンのひんしゅくを買うだろう。登場人物と読者に供される料理と度数の異なる四種類のビールこそが香菜里屋を香菜里屋たらしめているのだから。それを承知で断言するが、工藤哲也と香菜里屋とは、安楽椅子探偵(事務所)にして北森鴻の作品世界全体を支える演出装置なのである。
 第一回松本清張賞(一九九四年五月、日本文学振興会主催)の第二次審査を通過した十九篇のなかに新道研治『奇跡の花の下にて…』という作品がある。題名から『花の下にて春死なむ』の原型作品と考えて差し支えないだろう。松本清張賞への応募はパンドラ’Sボックス光文社文庫版の86 ページで言及しているし、『花の下にて春死なむ』講談社文庫版29 ページには“奇跡の花の下で無名の俳人逝く”というくだりがある。この作品のプロットも探偵役も不明だが、前述のくだりがあることから片岡草魚の半生を飯島七緒が追うというストーリーは同じではないかと思う。
 仮にこの作品に香菜里屋という舞台がなかったらどうなるだろう。安楽椅子探偵たるマスター工藤哲也も存在しないことになり、ヒロイン飯島七緒が探偵役を兼務することになる。ミステリの世界ではホームズとワトソンの昔から探偵役と助手役、狂言回しは分業と決まっている。主人公で、探偵で、さらに物語の狂言回しまでを一人の人間が行うのはさすがに無理がある。そんなスーパーマンみたいな登場人物にはまるでリアリティがない。『花の下にて春死なむ』では、香菜里屋とマスター工藤哲也が探偵役と狂言回しを担うことでヒロインとの役割分担ができ、七緒の旅や草魚と姉とのエピソードを十分に書き込むことができた。さらに香菜里屋が推理空間にとどまらず出会いと別れの場、そして物語の「間」として機能したことが、物語にいっそうの「深み」を与え、エンターテインメント作品として完成されたのだと筆者は考えている。

 究極型探偵の登場
 北森作品の主要キャラとして工藤哲也、宇佐見陶子そして蓮丈那智を挙げることに異論はないと思う。主演作は少ないものの越名集治も捨てがたい。この魅力あるキャラクターを創出しえたことが、北森鴻がミステリ作家として成功した理由のひとつだろう。
 ただし香菜里屋と工藤哲也は北森作品の主要キャラクターでありながら、狂言回し的な位置にいる。工藤哲也は安楽椅子探偵というよりも作者北森鴻に極めて近い位置を占めている。つまり北森鴻の分身が香菜里屋のカウンターに立って、訪れる客(彼が創出したキャラクターたち)と語り合うという一種のメタ構造を持っている。
 そこで北森作品の主要探偵を那智、陶子、越名の三名としてその属性を見てみると、那智は文句なく天才(型探偵)である。明智小五郎や神津恭介なのだ。対して、あちこちで罠にはめられ、叩かれ、それでも真相に辿り着こうとする努力型(苦労型?)の探偵が宇佐見陶子である。金田一耕助なのだ。対して雅蘭堂店主、越名集治に割り当てられたキャラはバランス型というべきか職人型と言うべきか。眠り猫のような目だが実は目利き、長年の知識と技術で事の本質に迫る職人型探偵である。
 三人の初出は、陶子が一九九六年(「狐罠」)、那智が一九九八年(「鬼封会」)、越名が一九九九年(「ベトナム・ジッポー・1967」)である。むろんシリーズ化を前提にしていたわけではない。本人は一作限りのつもりだったが、好評につき続編を求められたというのが本当のところで、なんと今度は探偵の相互乗り入れを始めた。相互乗り入れは那智シリーズの『双死神(一九九九年十月初出)』と冬狐堂シリーズの『狐闇(二〇〇〇年十月新聞連載開始)』に始まる。別シリーズのキャラクターが相互乗り入れをするという北森流は、個々のシリーズの個性を薄めてしまうというリスクがあるが、それでもあえて相互乗り入れを行ったのには理由がある。
 その理由は、北森作品のテーマである「邪馬台国とは何か」「魔鏡とは何か」「税所コレクションとは何か」等々の謎にまつわる壮大な陰謀にある。その陰謀に那智と陶子と越名は追い込まれ、三人は三位一体で壮大な敵に対抗することを余儀なくされる。天才と努力家と職人の合体形態、いわば“究極型探偵”の誕生である。その究極型探偵が挑んだ最大の謎が(北森にとっては未完となった)『邪馬台(鏡連殺)』である。つまり香菜里屋は、北森鴻の作品世界全体を支える演出装置にして、三人の探偵を超人=究極型探偵に合体変身させる「装置」だったのである。

 再び、香菜里屋とは何か
 なぜそんな変身装置が必要か。「超人に変身するにはやっぱりそれなりの演出というかアイテムが必要だな、うん」と、北森鴻が考えたかどうかはともかく、壮大な陰謀VS超人という設定、展開はともすればお子様向けに見られがちである。それを大人が楽しめるエンターテインメントに変えるのが香菜里屋という推理空間、メタ空間なのである。
 では、そもそもなぜ究極型探偵を誕生させる必要があったのか。それは壮大なテーマや謎、そして陰謀に対抗するには陶子の行動力、越名の職人技、そして那智の天才性を併せ持つ超人でないと物語として釣り合いがとれないからだ。かと言って、前述したように一人の探偵がそれらすべての属性を併せ持つ超人だとしたらあまりにリアリティがない。やっぱりお子様向けの作品だと言われかねない。そこで普段は准教授、旗師そして骨董屋店主というリアリティを持ちながら、いざという時だけベータカプセルが一閃し、ウルトラマンならぬ究極型探偵に合体変身するのである。そのベータカプセルの役目を担う「装置」がほかならぬ香菜里屋であり、工藤哲也なのである。
 北森鴻は、「連作ミステリの私的方法論」(『ミステリの書き方』幻冬舎刊)の中でこう述べている。
 「さて、シリーズミステリを執筆するうえで、留意しなければならない点をいくつかあげておこう。
 キャラクターと設定の安定。そこにはとりもなおさず「マンネリ」という陥穽が待っていることを忘れてはならない。事件の発生→キャラクターとの関わり→解決への条件提示→解決。一連の流れを安定と考えるか、あるいはマンネリと考えるか。作家のアイデアが問われるところであろう。わたしの場合、毎回作品の切り口を変えることで緊張感のあるマンネリを演出しているつもりである。
 探偵の超人化にも気をつけねばならない。シリーズを重ねるにつれ、探偵は次第に欠点を克服し、より完全体に近づこうとする。どうしてもそうなってしまうのである。」

 つまり名探偵は、陳腐化(マンネリ)と超人化という宿命を併せ持つ。その宿命を回避するために北森鴻が打った手が、“緊張感のあるマンネリ”を演出することと、超人化の上をいく“超超人化”であった。ここぞという時に超超人=究極型探偵に変身することで、超人化・陳腐化という宿命から解放されるという逆説的な効果が生まれた。さらにオールスター総登場で読者をワクワクさせながら、三人の名探偵が香菜里屋という装置によって超超人=究極型探偵へ変身するというケレン味たっぷりの演出がなされたのである。
 さて『邪馬台』完結後、究極型探偵はもとの准教授と旗師と骨董屋の店主に戻り、それぞれの世界で生きてゆく。香菜里屋も北森の作品世界から姿を消す。しかし工藤哲也は帰ってくる。香菜里屋は復活しなければならなかった。なんとなれば究極型探偵を必要とする事態が北森鴻の作品世界で必ずや再び起こるからである。壮大な謎と陰謀が迫り来る。危うし! 那智、陶子! 越名! その絶体絶命の状況で工藤と香菜里屋が復活し、三人は再び究極型探偵となって陰謀を打ち砕くのだ。だからこそ北森鴻は変身装置である香菜里屋を閉め、工藤哲也をいったん退場させたのである。復活の劇的な効果を最大限まで高めるために。  おわりに
 香菜里屋とは、那智と陶子と越名が究極型探偵に合体変身するための装置だった。では『邪馬台』の完結後、再び究極型探偵が必要とされる事態とは何か。「僕の頭の中には向こう十年分の構想がある」と豪語した北森鴻がもし健在であったならば、平成が終わろうとするまさに今、その謎が究極型探偵によって解明されつつあったにちがいない。今さらながら急逝が悔やまれてならない。あらためて北森さんのご冥福をお祈りし、私の妄想である「香菜里屋ベータカプセル論」を捧げたいと思う。どうか怒らないでください。                        

第二回

 二〇一七年十二月末が〆切となった第二回の評論・書評募集には、四篇の応募があった。前回の入賞作傾向から難度の高い評論が求められているとの印象を与えた可能性があるが、当コンテストでは硬軟取り混ぜた内容を幅広く求めていきたい。引き続き今野敏、柴田よしき、西上心太、杉江松恋が選考に当たり、入賞なし、ただし秋好亮平氏「通俗的な、余りに通俗的な――連城三紀彦文学試論」を奨励賞とする、との結論に達した。
 秋好作品は、近年何度目かの再評価が進んでいる連城三紀彦のいわゆる文学性について、一般的な先入観を覆そうとするものである。文体的特徴を手掛かりにして連城の戦略を読み解いていく過程には知的興奮を覚えるが、そうした手法自体は先行研究の功績を利用したものであり著者が付け加えたものは小さい、との意見があった。
 その他の応募作では、野地嘉文氏「連作花葬の分岐点――「戻り川心中論」」が奇しくも秋好氏と同様、連城三紀彦を扱ったものであった。ただし手法は大きく異なり、書誌研究に依拠している点に独自性がある。しかし、著者の視野があまりに狭く、文壇ゴシップとしてはおもしろいが、『戻り川心中』の評論としては物足りない。野地氏は他に「坂口安吾の血脈――『不連続殺人事件』論」を応募しておられる。こちらも同種の手法が採用されており、坂口の推理小説観についておもしろい仮説が提示されている。残念なのは、論の組み立てに用いられた素材選びが恣意的であることで、結論の脆弱さはそこに由来するとの指摘があった。
 琳氏「『魍魎の匣』と後期クイーン的問題」は第一回の入賞作と共通した問題意識を別の作品にも当てはめたもので、いわゆる〈脱格系〉とは何かという議論にもなっている。いささか我田引水の観があるのが残念なところで、後期クイーン的問題を京極作品に当てはめることについての妥当性を問う声が上がった。
 他者に首肯されうる論を組み立てるためにはそれなりの強度が必要になる。取材によって補強を粉うことも大事であるし、論の中核が何かを見極めて、話題を絞るという戦略も有効だろう。これまでの応募作は、その労力が不足しているように感じられる。さらに、なぜその作品を論じるのか、という点が不明瞭なものも多かった。
 逆に言えば、この作品を好きだから語らせてもらいたい、という恋文であってもいいのである。対象となる作品が昭和期のものに偏る傾向もあるが、近年の、いまだ評価が定まっていない作品についての文章も歓迎である。どうか、自由に作品を論じていただきたい。

[奨励賞]
通俗的な、余りに通俗的な――初期連城文学試論

秋好亮平

 三十四回日本推理作家協会賞の短編部門を受賞した「戻り川心中」をはじめ、連城三紀彦の初期作品群は、その流麗な美文調や濃密な詩情のため、文学的であると評されることが多い。権田萬治は講談社文庫版『戻り川心中』の解説で、「「戻り川心中」や色街の代書屋の殺人を描いた「藤の香」の文学的な香りの漂う文章」と書いているし、浅木原忍も『ミステリ読者のための連城三紀彦全作品ガイド』の中で、「極めて豊かな文学性を伴った詩情とロマンチシズムに溢れた短編小説」と紹介している。
 しかし、連城の文体や作品風土は、果たして本当に文学的と呼び得るだろうか。抒情的な雰囲気を醸し出す、巧い文章であるのは間違いない。が、それと同時に、その美文が非常に装飾的で、通俗的なものであるというのもまた、確かなことだろう。
 例えば、権田が「花の姿の中に歌人の人生を見事に投影している」と絶賛する、「戻り川心中」内の次のような一節。

 花は舟に追いつき、舟縁を両端から包むようにして先へと流れて行く。白と紫を様々な模様に織りなして、闇の川は花衣を纏ったように見えた。眼前を、儚い筋をひいて、闇から闇へと流れていく花が、私には、苑田の遺した何千種という歌の無数の言の葉にも、苑田と情をくみ 交わした女たちの命の残り火にも思えた。

「闇」の川は花衣を纏い、流れていく花は無数の言の葉にも命の残り火にも見えるというのだ。初期連城文体の最大の特徴は、斯かる大仰な比喩である。そして、連城のレトリックは、比喩の対象に関して読者の共有するイメージを絶対に裏切ることがない。夜の川を闇と表現するのも紋切型であるし、花々が夜の川を流れていく情景に対しても、演歌的なイメージを補強するような、既成の言葉が並べられている。〈花葬〉シリーズの一編目「藤の香」からして、色街の燈を通夜の儚い燈に喩えるところから語り始められる。云うなれば、連城の美文はマニエリスティックな操作の結果に過ぎないのだ。
 とはいえ、ここでは連城の小説が通俗的であると批判したいわけではない。むしろ事態は逆である。俗情と結託した通俗的な美文とメロドラマ、その通俗性を裏切る一瞬にこそ、連城“文学”の真価があるのだ。

 講談社文庫版『変調二人羽織』の関口苑生による解説では、初期連城作品に雨の描写がつきまとっているということが指摘されている。

 彼の作品に接するとき、ぼくはいつも、どこからか雨の音が聞こえてくるような気がして仕様がない。もちろん気のせいであることはわかっている。
 けれども、と同時に彼の小説に雨の描写が多いことも事実で、そのことも若干の影響はあるかも知れない。
 代表作とされる「戻り川心中」にしてからが、クライマックスの場面は、執拗に振り続ける雨の日のことであった。[……]
 こうした(引用者註:「恋文」や「私の叔父さん」に見られる)“純”な愛情。哀しいばかりまでの愛情。別れていくことで、さらに高まっていく愛情の物語が連城三紀彦の基調テーマなのである。そこに、別れを予兆させる雨が登場するのは、極めて自然のことであった。

 雨の描写が多いという関口の指摘自体は鋭いが、連城の基調テーマが「愛情の物語」であるというのは、ただ物語をなぞっただけの表層的な読解でしかなく、雨の描写がもたらすのも「別れの予兆」などであるはずがない。雨の描写に別れの予兆を読み取れるとすれば、それは連城の文章が、「雨=別れの予兆」とする読者の通俗的なイメージと結託していると云っているに過ぎないだろう。雨の描写に関しては、イメージの世界に浸ることなく、ひたすら記号的に読む必要がある。
 講談社文庫版『密やかな喪服』の解説で、新保博久は「『恋文』に至るまでの連城氏の作風の展開は、自己の作品から傍点をなくしてゆくための闘いだったのではないか」と述べ、連城作品における傍点の数についての調査結果を記載している。

 デビュー作「変調二人羽織」には(算え違いがないとすれば)実に678個ある。この作品を表題とする短篇集全体では、854個に及ぶ。これが、『恋文』では表題作は傍点0、全体でも27個しかない。[……]
 この伝(引用者註:『恋文』では雨がほとんど登場しなくなったという関口苑生の分析)でいけば、連城氏はもはや傍点の力も必要としなくなってきたと言えよう。そう言うと、傍点は雨のしずくにも似ている。

 新保が示唆するように、傍点は雨粒と類似している。すなわち、連城作品における雨の描写は、形の類似した傍点をテクスト内に呼び込み、文中に降らせる契機なのだ。では、傍点によって生じる効果とはなにか。新保の解説でも、「傍点を多用するほどに、作者の手つき顔つきが読者に透けてしまう」と指摘されているとおり、傍点は作品世界に亀裂を走らせ、その人工性を露わにしてしまう。というよりそもそも、通俗的な文章と物語は、人工的なトリックやどんでん返しを仕込み、内破されるために用意された器で、傍点はその表面に浮き出た染み、痕跡といったところであろう。
 そして、この通俗性と人工性の相関の先に、連城文学の「文学性」が現出する。どういうことか。
 千街晶之は「ジャーロ」53号掲載の評論「再演の背景――連城三紀彦論」において、連城作品はいずれも「多くの読者の良識を逆撫でする異様さを孕んで」おり、根幹には「世間並みの良識など一顧だにしない、人工性の極致のような「常識破り」」があると論じている。千街のいう「常識」や「良識」は、本稿における「通俗性」という語と対応し、「異様さ」や「常識破り」は「文学性」と対応しているだろう。図式化すれば、人工性の極致=常識(=通俗性)破り=異様さ=文学性、となるはずだ。それでは何故、異様さが文学性とイコールを結ぶのか。
 ハルキ文庫版『戻り川心中』の解説で、巽昌章は〈花葬〉シリーズについて、「反―情念小説とでもいうべき存在だろう」と記し、次のように分析した。

 私たちが連城作品にまんまと欺かれ、背負い投げをくわされるのは、作者が提示する仕組まれたドラマを、そのまま受け止めてしまう、あるいは補強さえしてしまうという、私たちの心の動きによるところが大きい。たとえば、若い男女の死から直ちに「心中」を連想してしまうというように、私たちは自分の内にある心情の枠組みによって、勝手に騙されてしまうのだ。その意味で、これらの作品群はたしかに、私たちの心がいかに紋切型に弱いかという事実を、残酷に暴きたてるといった面をもっていもする。

 連城作品における通俗的(=紋切型)な文体や物語は、読者の心の枠組みとの共犯関係によって構築される。ゆえに、それが人工的な仕掛けによって打ち破られたとき、読んだ者に言葉を失わせるような衝撃をもたらすのだ。その絶句体験は、まさしく事件である。謂わば、異様な、得体の知れないものとの突発的遭遇。そこにこそ、破壊的で反社会的な、本来的な文学性が宿る。こちらの常識を脅かすその野蛮さが、美文調や物語内容といったイメージに拠らない、連城“文学”の神髄なのだ。

第一回

 初の試みとなる評論・書評募集には十篇が寄せられた。今野敏、柴田よしき、西上心太、杉江松恋の四名がすべてを精読した結果、琳氏「『都市伝説パズル』と後期クイーン的問題」と野地嘉文氏「もうひとつのモダーン・ディテクティヴ・ストーリイ――『乱れからくり』論」の二篇が首位を争うことになった。
 前者は、法月綸太郎作品の中で「都市伝説パズル」という短篇がどのような位置を占めるかという点について、作者が強い関心を抱いているエラリイ・クイーンの作風変遷と法月のそれを重ね合わせるという手段を用いて独自の結論を導き出した力作である。後者は、都筑道夫『黄色い部屋はなぜ改装されたか』で提唱された現代的推理小説のモデルを参照しつつ、泡坂が別解を示した可能性を指摘するものだった。
 支持は分かれた。琳氏作品についてはその曲芸的な論理展開が高く評価されたが、〈横並びの批評〉などの用語が恣意的で問題意識を共有する者以外には論旨が伝わりにくい点などが疑問視された。また、これが掲載されれば反対意見も出るはずだが、議論の活発化こそ評論としては歓迎すべき事態である、との声もあった。
 野地氏作品は選考委員の一人から「評論・書評も文芸の一ジャンルであり、その意味で本作は最も興趣を掻き立てられた」との意見があり、書誌への目配りが行われた唯一の応募原稿であることが評価されるも、「作者がそう言ったことがある」程度の強度のない根拠を積み上げて結論に達しようとするやり方に疑義が呈され、肝腎の結論が立証を欠いた感情的なものになっているのではないか、という批判も出た。
 ともに一長一短があって決定打がなく、実力拮抗しているのであれば二作掲載が望ましいだろうという結論に達した。なお、その他の投稿作で支持を集めたのは両角長彦氏「果しなき邪推の果に 小松左京『日本沈没』」であった。読み物としてはこれが一番という声が多かった。
 全体を振り返ってみると、作品論なのか作家論なのか、自身の原稿が評論を目指すのか、書評なのか、方向が定まらないものが多かったように感じる。四千字の中でできることは限られており、設計段階から確たる方針を持つことが望ましいのではないだろうか。全般的に情報過多の原稿も多かった。自身の知識を開陳したい欲求と闘わずに詰め込めば全体が浅くなる。そうなれば論拠の信頼性は揺らぐのであり、あれこれと欲張らずに題材を絞って一本勝負することも次回の投稿者にはお勧めしたい。

『都市伝説パズル』と後期クイーン的問題

琳 (@quantumspin)

 法月綸太郎は二〇〇二年、『冒険』『新冒険』に続く同名探偵のシリーズ短編集『法月綸太郎の功績』を発表する。本書収録の『都市伝説パズル』は第五十五回日本推理作家協会賞(短編部門)を受賞。続いて上梓された『生首に聞いてみろ』(二〇〇四年)では第五回本格ミステリ大賞(小説部門)を受賞する。これら受賞で法月が『ふたたび赤い悪夢』(一九九二年)以降続くスランプを脱したかどうかは意見が分かれるが、少なくとも従来の法月論では彼の転機を『生首』とする事が多く、その前作である本書が注目される事はあまりない。
 法月の推理作家協会賞受賞の言葉には「自分の書いているものが、賞味期限切れの古めかしい小説のように感じ始めていた時期だけに、「楷書」で書いたシンプルな本格を評価していただいて、なおさら強く励まされる思いです」とある。これは選考委員の評価とも概ね一致する。例えば辻真先は『数年前発表された『……新冒険』に比べて若干骨張った印象はあるが、短編ミステリのお手本というべき強靭さに揺るぎはなかった』と書いているし、西木正明も『いわゆるパズラー系の本格物短編として、完成度の高いものである』と評している。
 無論『都市伝説パズル』は優れた本格短編である。しかし『功績』の他作品に目を向けると、これらを〝「楷書」で書いたシンプルな本格〟と呼ぶにはあまりに異形に過ぎる。端的に言って『功績』におけるクイーン作品のおびただしい利用は尋常でないのだ。『イコールYの悲劇』や『中国蝸牛の謎』のあからさまなタイトルは言うに及ばず、『ABCD包囲網』では『九尾の猫』を下敷きにし、『溢心伝心』では『最後の一撃』に『エジプト十字架の謎』のトリックを忍ばせる。『チャイナ橙の謎』の変奏である『中国蝸牛の謎』の梗概は『Yの悲劇』の反復に過ぎない。本書のタイトルはドイル&カーの合作パスティーシュ『シャーロック・ホームズの功績』からの借用らしいが、法月はタイトルによってクイーン作品の利用(搾取)を自白するのだ。『都市伝説パズル』はこれらクイーンの跋扈する異様な短編群の中心に据えられる。しかもこの前後4作品は『Yの悲劇』『チャイナ橙の謎』『九尾の猫』『最後の一撃』というクイーン作品の時系列をなすのだ。これら事実を踏まえると『都市伝説パズル』とクイーン中期作品とを切り離して読解することは、作者の真意から目を背けているに等しい。我々は『功績』が書かれた文脈を再認識しなければならないのである。

 クイーンの後継者を自認する法月は、『シャム双子の謎』の〝読者への挑戦状〟削除の謎を形式主義的視点から分析した『初期クイーン論』(一九九五年)で、自らが依拠する古典本格形式の困難をも浮き彫りにする。この分析は後に「後期クイーン的問題」として理論的純化が図られ、作家、批評家を巻き込む大きな波に発展するが、これが法月の当初の問題意識から乖離してしまうように見えるのは、『法月綸太郎という作家を突き動かした「形式化」のモメントは、「後期クイーン的問題」そのものというより、そうした<問題>に取り憑かれざるをえなかったクイーン固有の思考が示す性格のなかにこそ、その精神的同胞を見出す』からなのかもしれない(『初期クイーン論』より)。その後「後期クイーン的問題」がネタとして消費され続けるのを横目に、法月は一人クイーンに没頭し続けるのである。
 そんな法月の転機は『一九三二年の傑作群をめぐって』(一九九九年)の『災厄の町』論だろう。法月はここで用いられたクイーンの技巧を次のように説明する。

 初期の作風に比して、『災厄の町』は論理的なプロットが弛緩しているという指摘がしばしばなされる。だが、それははたして「弛緩」なのだろうか?われわれはむしろこの作品の中に、否定神学的思考に対するクイーンの抵抗を見出すべきではないだろうか?なぜならそこには、探偵小説をシステムの全体性という呪縛から解放し、微視的なコミュニケーションの一回性に向かって新たに開いていく回路の可能性が密かに示されているからである。

 その後法月はこの発見を繰り返し自著に利用する。『生首に聞いてみろ』の〝誤配の連鎖〟や『キングを探せ』(二〇一一年)の複数解釈を共存させる〝横並びの推理〟は、いずれも『災厄の町』の反復に他ならない。続く『ノックス・マシン』(二〇一三年)では〝横並びの批評〟とも言える、SFの域に飛躍した解釈で『シャム双子の謎』〝読者への挑戦状〟削除の謎の別解を示し、さらに『挑戦者たち』(二〇一六年)では古典本格形式の〝謎と論理的解明〟を大胆に削除し、かわりに複数の挑戦状で〝横並びの本格形式〟を打ち出すなど、もはや神学と見なせるほどクイーンの技巧を作品化し続けている。こうする事で「後期クイーン的問題」を内包する古典本格形式からの脱却と自らの救済の道とを模索しているのが法月の現在の姿である。その先に法月の求める答えが待っているかどうかは定かでないが、しかし神クイーンを超えた地点に彼の望む答えは存在しないだろう。『彼が陥った苦境から抜け出すための専門的な処方箋を書いている作家は、後にも先にも、クイーンしかいなかったからだ』(『ふたたび赤い悪夢』より)
 そんな法月が『一九三二年』の後初めて書きあげた短編集が本書『法月綸太郎の功績』である。『都市伝説パズル』はこうした文脈の中に生み出されているのだ。

 『都市伝説パズル』はその名の通り、次の都市伝説が重要な役割を担う。深夜、B先輩宅に忘れ物を取りに帰った女子学生A子さんは、寝ている先輩を起こさないよう電気をつけず、鍵の開いた先輩宅に忍び込む。その夜は何事もなく過ぎるが、翌日その部屋から先輩の死体と、血文字で書かれた「電気をつけなくて命拾いしたな」というメッセージとが発見される。
 本作の結びではこの都市伝説の後日談が明かされる。一見すると、事件を受けて後日談が後付けされたと読めるこの結びには、しかし前後の時系列が明記されず、綸太郎含む作中人物の認識しない後日談が事件以前から存在していたとも読める。この場合も実行犯が都市伝説を利用したと解釈できるが、他方次の解釈もできる。事件の真相と等しい都市伝説が事前に存在し、しかし実行犯はそれを十分に理解しないまま、意図せず都市伝説の筋書きに沿って殺人を行う。実行犯が都市伝説を〝利用する〟のではなく、『ダブル・ダブル』のごとく、実行犯が都市伝説に〝操られる〟物語かもしれないのだ。果たしていずれが真相か、作中で言及される事はない。
 都市伝説とは端緒の物語とその他との区別があやふやな、作者不詳の〝横並びの物語〟である。実行犯がなぞる「筋書き殺人」の作者、つまり操りの主体(計画犯)や筋書きのバリエーションは無数に存在しているのだ。法月が都市伝説のこうした特質に自覚的だった事は言うまでもない。〝『事件の全体を見渡すような超越的な視点(メタ・レベル)』の不在〟や〝横並びの筋書き〟は、まさに『災厄の町』の「筋書き殺人」のプロットに呼応しているからだ。
 こうした作品構造は、綸太郎の推理にまで影響を及ぼす。綸太郎は血文字のメッセージを残した犯人の〝意図〟の合理性を手掛かりに推理を展開するが、本来、犯人の意図の解釈は物的証拠を手掛かりとした演繹推論と比して〝論理的なプロットが弛緩〟した憶測になりかねない。しかし法月はあえてその危うい手掛かりを基礎に推理を構築するのだ。これは一見『災厄の町』の〝横並びの推理〟を再現しているかに見えるが、しかし本作で綸太郎が(ありえたかもしれない可能性)を口にすることは最後までない。本作で〝横並びの推理〟は、無数の都市伝説と同じく、作外に突出してしまっているのだ。恐らくこれが本作最大の仕掛けだろう。
 法月は本書あとがきで「とりたてて全編を統一するコンセプトのようなものはないはずだが、しいて言うなら、風通しのいいカジュアルな本格を書こうという気持ちはあったかもしれない」と述べる。無論法月の言うカジュアルは、格式張らずくつろいでいる類の簡単な意味ではない。これはクイーン初期のフォーマル(形式的)に比して〝論理的なプロットが弛緩している〟とされる『災厄の町』の作風を意味している。そして法月は、ありえたかもしれない無数の筋書き、無数の推理を作外に突出させ、「短編ミステリのお手本というべき」かつてのフォーマル(楷書)な本格に限りなく「漸近」させるのだ。フォーマルと見紛うカジュアルこそ、法月の到達した〝風通しのいいカジュアルさ〟という高みに違いない。
 もはや『都市伝説パズル』を『功績』の中心に据えた作者の意図は明らかだろう。単作でみればフォーマルな『都市伝説パズル』の様相は、『功績』の中心にある事でカジュアルな本格に一変する。短編集ならではのこの〝横並びの作風〟の技巧は、無論『災厄の町』のメタ・レベルでの変奏に他ならない。従来『生首』以降と評される法月の作風転換の試みは、新旧作風の共存する『都市伝説パズル』において、既に始められていたのである。

もうひとつのモダーン・ディクティヴ・ストーリイ
 ――『乱れからくり』論

野地 嘉文

 泡坂妻夫『乱れからくり』『11枚のとらんぷ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、スティーヴンスン『宝島』、マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』、横溝正史『八つ墓村』の内容に触れています。

 一九七七年十二月に「幻影城ノベルス」から刊行された『乱れからくり』は、『幻影城 一九七七年十二月号』の「幻影城サロン」で「からくり図式」として紹介されている。泡坂家に残された創作ノートの表紙には「機巧(からくり)に触るな」という、通俗的なサスペンス小説を思い起こさせるような仮題がつけられている。二転三転の末に名付けられた『乱れからくり』という名はどこか時代小説風である。本作は探偵小説復活の旗頭として評価を受け、第三十一回日本推理作家協会賞長編部門を受賞した作品であるが、本格探偵小説らしからぬタイトルは、読者の期待をよい意味で裏切ろうという作者の企みが透けて見えるように思える。
 創作ノートによると、『乱れからくり』はその年の四月二十一日から着手され、五月二十二日には脱稿されている。遅筆を自ら任じていた泡坂妻夫であるが一気呵成に書き上げられたことがうかがわれ、読み手を息をつく間もないほどの速さで最後のページへと導く。
 ところが、探偵役を務める宇内舞子によってきらびやかにちりばめられたトリックが解きほぐされると、最後にある疑問が残る。からくりづくしの連続殺人は魅力的な趣向だが、そもそもなぜ犯人はからくりにこだわって犯行を企てたのだろう。作中ではその理由が明確には語られていない。自動殺人を実現するために、その手立てとして身近にあった玩具を利用したのだろうということは容易に推測できるものの、すべての殺人で偏執狂的に玩具を利用する必然性はない。
 亜愛一郎シリーズの一編ならば、犯人が不可解な行動をとったとしても、物語の最後で意図が明らかになる。それまで二枚目らしからぬ奇矯な態度をみせていた亜が、一転してシリアスな面持ちで真相を明かすことで、ぐるりと世界が反転し、狂人の論理は説得力を持つ。しかし、宇内舞子は、犯人がからくりにこだわった理由には踏み込まず、疑問を残したまま種明かしを終えている。
 都筑道夫は『黄色い部屋はいかに改装されたか?』のなかで、現代の本格推理小説は「ホワイに重点をおいて、その解明に論理のアクロバットを用意する」「論理のアクロバットを重視して、必然性第一にプロットを組み上げる以外、本格推理小説の生きのこる道はない」と主張し、モダーン・ディクティヴ・ストーリイを提唱した。必然性があやふやな『乱れからくり』は、都筑道夫がいう意味でのモダーン・ディクティヴ・ストーリイには該当しないのかもしれない。本作に先立って書かれた『11枚のとらんぷ』は、事件現場に奇術の小道具が壊されて散らばっている理由が薄弱であることを、日本推理作家協会賞の選考で佐野洋から示唆されている。だが、どちらの作品も魅力的な謎が提示され、謎の魅力に勝るとも劣らないアクロバティックな解決がある。初期のふたつの長編において泡坂妻夫は必然性の追求よりも、探偵小説が本来持っていた謎の魅力と、その謎が奇術的に解決されることで生み出される眩暈に力を注いでいるように思える。
 事件は、巨大な迷路を庭に備えたねじ屋敷で展開される。奇怪な屋敷で繰り広げられる連続殺人といえば、本作以前の作品では、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』が連想される。泡坂妻夫が『乱れからくり』を執筆するにあたって『黒死館殺人事件』を念頭においたという確証があるわけではないが、冒頭に登場する驚駭噴水やテレーズ人形、鐘鳴器など『黒死館殺人事件』もからくり趣味に彩られ、さらに地下道の存在やどちらの作品にもペダントリーが横溢している点など、共通項は幾つも挙げられる。だが、リーダビリティの高い『乱れからくり』と難渋な『黒死館殺人事件』とでは受ける印象は大きく違う。
 『KAWADE夢ムック 泡坂妻夫 からくりを愛した男』に収められている竹本健治の「泡坂さんに関する二、三」では、『幻影城』に連載中だった『匣の中の失楽』に対して「余計な部分をバッサリ削ぎ落としてしまえば傑作になるよ」とアドバイスを受けたことを引き合いに出し、泡坂妻夫には『黒死館殺人事件』などの奇書をおもしろがる感性はあまりなさそうだと評されている。
 デビュー間もない小栗虫太郎は『新青年』に長編を連載するにあたって、作中でも言及しているヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』を下敷きにしながら、自分ならこんなふうに書きたいと思った部分を膨らませて『黒死館殺人事件』を執筆したのではないかと思われる。小栗虫太郎の構想力は『グリーン家殺人事件』を踏み台として大きく飛翔し、劣化コピーではない独自の世界を構築している。それと同じように本作を書く際に『黒死館殺人事件』が泡坂妻夫の頭にあったなら、余計だと思われる部分をバッサリ削ぎ落とし、まったく新しい探偵小説をつくりあげようとしたのではないか。そしてその試みは見事に成功している。
 いにしえの探偵小説と大きく異なっているのは、人物の造形である。ねじ屋敷に跋扈するからくり人形や巨大迷路など大時代的な道具立てとは対照的に、登場人物はそれぞれに過去を背負い、血が通った人間として描かれている。ボクサーになる夢を断念した主人公の勝敏夫は、人生をやり直すために職を探している。彼を雇う宇内舞子もスキャンダルにより警察を辞職している。誰もが傷を負っているが、痛みを声高に叫ぶことはない。物語の最後で財宝を発見してもその反応はクールで『宝島』『トム・ソーヤーの冒険』『八つ墓村』など財宝の発見で大団円を迎える他の作品のような過剰な感情は見られない。
 ねじ屋敷の住人も、黒死館に住むエキセントリックな登場人物とは異なり、人間らしい感性を持ち合わせた常識人である。ロマンチックな嗜好を利用されて殺された香尾里や、死に際に宗児がつぶやくダンディズム溢れた言葉はとりわけ印象に残る。リアリティ溢れる人間描写は、笹沢左保や結城昌治など、当時、主流だった推理小説を読むようである。対照的にねじ屋敷の描写は最小限に抑えられ、作者は建物が主人公としてみなされることがないよう細心の注意を払っているかのようである。
 宇内経済研究会が入る貸しデスクの場面は、後年『春のとなり』で取り上げられたように泡坂妻夫の青春時代の実話をモデルに描かれている。当時のことは、『時代小説大全 一九九七年冬号』掲載の「私の習作時代 サラリーマン時代」など、さまざまなエッセイで描かれている。中学卒業後、泡坂妻夫は夜間高校に通いながら、神田錦町河岸の堀端にある、社員が十人程度の小さな建設会社に就職した。職業安定所に何日も通いつめて、ようやくありついた仕事だった。建設会社は貸しビル業も経営しており、一軒おいた隣にある細長い木造三階建てのビルで貸しデスク業を営んでいた。泡坂妻夫はそこで電話番をしていたのだが、午前中は暇を持て余し、神保町の古本街で買ったゾッキ本のミステリーを読みふけっていたという。『乱れからくり』には「詰襟の学生服を着て、童顔の残っている顔」として、自画像が描かれている。本作でペダントリーを披露し、事件を交通整理する役目を担う三友商事の福永の原型となった福永商事の福永氏ともそこで出会っている。彼は当時三十前後、毎日昼ごろに肥った身体を会社にみせては新聞を読むだけの生活を送っていたらしい。
 松本清張は『随筆 黒い手帖』所収の「日本の推理小説」のなかで「戦後の探偵小説は、どうも人間というものが描かれていない」「探偵小説を「お化屋敷」の掛小屋からリアリズムの外に出したかったのである」と主張し、それまでの探偵小説を批判している。泡坂妻夫は松本清張の問題提起に対するアンサーとして、いにしえの探偵小説のフォーマットにリアリティ溢れる人間を適用し、お化屋敷の掛小屋に住んでいる血の通った人間を描こうとしたのではないだろうか。『乱れからくり』は古い革袋に新しい酒を注ぎ入れた野心的な作品であり、都筑道夫の提唱とは違った意味での「もうひとつのモダーン・ディクティヴ・ストーリイ」として歴史的な道標であると断言できる。
 リトルマガジン『幻影城』から始まったささやかなルネッサンスは、『乱れからくり』が日本推理作家協会賞を受賞することによって推理文壇のメインストリームから認められ、さらに刊行から一年余りという異例のスピードで角川文庫に入り、大手出版社の強力な販売力によって多くの読者に届けられた。探偵小説復権の牙城だった『幻影城』はそれからまもなく休刊を迎えている。角川書店への橋渡しを行ったのは『幻影城』編集長だった島崎博自身であり、当時『幻影城』最大のヒット作を他社に渡す手助けをしたのは、その頃既に会社の倒産を想定していたためではなかったかと、泡坂妻夫はエッセイ『尽きない思い出』(野性時代 一九九六年四月号)のなかで回想している。『乱れからくり』は幻影城が落城したのちも、蘇った探偵小説を伝道する役割を果たしたのである。