続 ふるさと発見七十年
乱歩と辻せき

秋永正人

 先々月の協会報に掲載された拙稿「ふるさと発見七十年 乱歩と岡村繁次郎」の続編を投稿させていただく。当初続編の予定はなかったが、繁次郎氏が残した手記から氏と乱歩の出会いや交流をたどるなかで、さらに思わぬ資料に遭遇したのでぜひそれを紹介したいと考えたのである。
 今回の主人公は「辻せき」という慶応三年(一八六七)、江戸時代最後の年に生まれた女性だ。せきさんは明治二十七年(一八九四)十月二十一日に実家所有の長屋で生まれた赤ちゃんを実母と共にお世話した人で、その赤ちゃんは五十八年後の昭和二十七年(一九五二)九月、岡村繁次郎氏らに案内されてせきさんを訪ねてきた。
「あら! 大っきなって!」
 天下の江戸川乱歩に会ったせきさんの第一声と辻家に伝わる。乱歩はせきさんから自身の母のことや生まれた当時の思い出話を聞き、『ふるさと発見記』に「老齢のため、足が不自由で寝たままではあるが、頭はハッキリしているし、目や耳もよく、きれいなお婆さんであった」と記した。せきさん当時八十六歳。
 辻家は名張きっての旧家でかつては初瀬街道沿いの本陣だった。乱歩が生まれた頃は酒屋を営んでおり、せきさんは辻酒店から東に百メートル離れた横山医院の娘として生まれご近所の辻家に嫁いだのである。実家の横山家は代々名張藤堂家の典医で、横山医院は父横山文圭氏が開き、さらに弟の正四郎氏が継いだが、この正四郎氏こそ岡村繁次郎の義父にして、大正四年の帝国議会衆議院議員選挙で乱歩の大恩人である川崎克と戦い惜敗した人物であることは前回述べた。
 現在の辻家にはせきさんの曾孫の辻孝信氏が住んでおられるが、辻さんと筆者とは旧知で年齢も近いので、ひいばあちゃんのこと調べて! という筆者の無茶振りを受けた辻さんが膨大な辻家の文書と格闘すること二日。
 出たのである。せきさんの手記がいっぱい。反故紙や孫の使い古した大学ノートに毛筆で書いてある。なんと昭和二十七年乱歩が訪ねてきた時の手記がある。昭和三十年の生誕地碑除幕式当日の手記もある。ホンマかいな、出来すぎじゃないの? 
 辻家は代々文化関係に造詣が深いが、ひいばあちゃんがこれほど手記を残していたなんて…と辻さん自身が驚いている。しかも昨年は乱歩の「ふるさと発見七十年」、今年は「乱歩デビュー百年」というタイミングでよくも出たものである。曾孫の日頃の行いのせいであろう。
 見つかった手記の多くには、日々の生活や趣味の人形作りを詠んだ短歌、家族やお孫さんを慈しむ心情が記されている。せきさんが手元の紙にそうした心情を綴るようになったのは足が不自由になられたのちのことではないかと推測するが、家族への愛情はもちろん年老いた自らの過去と今を冷静に省みて、そしてごく自然に明日を見つめているのが印象的だ。まずは今回発見されたせきさんの手記をご覧いただきたい。

  昭和二十七年九月二十七日
  本名 平井太郎君 江戸川
  らん歩さん 御母さんの乳
  ぶさにすがる姿目に浮かぶ
  面会するや暫く一人きり
  □□今は五十九才 さすが
  有名の人物と見受けた
   母堂壮健七十九才トキク

 さらに数日後、また出た。今度は平井家を含む横山医院の敷地全体の手書き平面図だ。借家の平面図は貼雑年譜に載っているからよく知られているが、敷地全体の平面図が確認されたのは初めてだと思う。平面図は鉛筆書きで、左下角に「平井氏寓居」の文字が確認できる。貼雑年譜の平面図と同じ間取りで、年代は不明だが筆跡からせきさんが書いたと思われる。乱歩が生まれた明治中期の生活の音や匂い、住人の声までが聞こえてきそうだ。
 さらに手記やら短歌やら、趣味の人形作りのことなどもういっぱい! せきさんは〝書きたい人〟だったのだ。しかも手記や知人からの手紙を綴り込んで表紙をつけている。これはもう『せきの貼雑年譜』だと辻さんが呟いた。が、貼雑年譜というにはまだまだ資料の整理が必要だ。曾孫の奮闘が待たれるところだが、あまりの多さに辻さんは「せきばあちゃん自身がミステリーだ」と当惑している。日頃の行いのせいであろう。

乱歩はなぜ名張を〝ふるさと〟と呼んだのか
 生誕地とはいえ乱歩と名張のつながりは、本籍地である津や少年時代を過ごした名古屋、そして青春の地鳥羽と比べてあまりに少ない。というか、ない。では乱歩はたまたま生まれただけの名張をなぜ〝ふるさと〟と呼んだのだろうか? 以下、筆者の妄想におつきあい願いたい。
 そもそも自身が名張生まれということは両親か祖母から聞かされたはずだ。そこで浮かぶのが前述のせきさんの平面図である。横山家や店子の人々、使用人たちの声や生活音が聞こえてきそうだが、明治二十七年十月二十一日には太郎の産声も響いたことだろう。産婆が間に合わず、大家である横山文圭夫人のよしへさん(せきさんの実母)らが分娩に立ち会ったらしいが、それが十八歳で初産、夫と義母の他には身寄りのない名張で心細い思いをしていた太郎の母きくにとって強烈な記憶となっても不思議ではない。せきさんはきくより八歳ほど年上だが、まわりでは一番気安く話せる相手だったのかもしれない。
 太郎はそういった経緯を母から断片的に聞いていただろう。そんな乱歩にとって目の前でせきさん本人から聞く昔話は、半世紀前のおぼろにかすんでいた自らの出生や若き両親の姿をはっきりと浮かび上がらせたのだと思う。
 それはまるで名探偵明智小五郎によって全ての謎が白日の下にさらされるように、せきさんの話は霧にかすんでいた自身の誕生や当時の両親のことをはっきりと浮かび上がらせて、還暦間近の乱歩に大きな感銘を与えたにちがいない。
『ふるさと発見記』末尾には「いずれゆっくり帰郷して、付近の名所を歩きまわりたい」とある。『ふるさと発見記』の初出は雑誌『旅』だから、生まれただけの土地をふるさとと呼んだのはリップサービスだったかもしれない。しかしながら名張を訪ねることを当たり前のように〝帰郷〟と言ったのは、ひとえに平井家と横山家の人々、そして辻せきさん、岡村繁次郎氏ら半世紀を超える名張の人々との縁であり、名張の人々への好意のゆえだったと筆者は考えている。

 最後に、生誕地碑除幕式当日のせきさんの手記の全文を掲げて拙稿の結びとしたい。(読みやすさのため筆者が一部句点や改行を行った)

 昭和三十年十一月三日 せき当日の様をしるす
 去る年、元横山文圭医師宅借家に平井さんと申す人、郡役所つとめの方あり。
 明治二十七年一男子をもうけ、体格見事に妾母よしへが出産の世話をなし喜びておりしも、父親転任の為名張を去りその後音信不通のまま数年後、東京住いの小説家平井太郎さん江戸川乱歩の名をあらわしても生地を知らぬ淋しさ思う内、時来り名張へ、五十八年目の朝、車でさっそく横山を尋ねしも家主かわり元の住屋知る者のなき故、岡村繁次郎冨森自転車屋の案内にて妾の許へ見え突然ながらなつかしの知るところを語り多忙の折りから短時にいとまごい
 其の一郎(太郎の誤記か?)生地記念の碑を約し有志努力の結果当主桝田医院庭内に建ち十一月三日盛大なる除幕式をおこない終わりて後、妾の許へたずねられ妻君と友人を案内岡村繁次郎冨森横山省一ニカイにて面談 
 おちか茶の点前あい子茶のはこび したしき席におりゅう妾の造る人形持ち出し和む 
 ふと恥ずかしき夢か寝言の筆が目にとまり短冊と筆をあたえられ余儀なく悪筆を書きましたは
 老いたれどまつり気分のうれしさは 太鼓の音も変わりあらざる

参考文献
・「伊賀 暖簾ト人物」暖簾ト人物社
・江戸川乱歩リファレンスブック3「江戸川乱歩著書目録」名張市立図書館
 冒頭に引用された地方紙の記事では「セキ」または「昔」となっているが、ご本人はひらがなで「せき」と表記しているのでそれに従う
・「探偵小説四十年(下)」光文社文庫版江戸川乱歩全集第二九巻
・「わが夢と真実」光文社文庫版江戸川乱歩全集第三〇巻
・「伊賀一筆」第二号 編集・発行 中相作
・「乱歩誕生」創作劇脚本 中相作