追悼

光原百合さん、ごめん。そして、ありがとう。

戸川安宣

 光原さん、お加減が悪いとはうかがっていましたが、こんなに早く逝ってしまわれるとは、思ってもいませんでした。
 光原さんとぼくは実に妙な間柄でした。作家と編集者、ではありませんでした。ぼくは光原さんの本を一冊も作っていません。
 きっかけは何だったのか、良く覚えていませんが、ともあれ、東京創元社の女性編集者が辞めて、だれか代わりをとろう、ということになったとき、ぼくは光原さんに声をかけたのです。うちで本造りをしませんか、と。当時の光原さんは、大阪大学の大学院博士課程に在籍中で、このまま象牙の塔に残るかどうか、迷っている、とうかがっていました。
 いつ、どういう形でお目にかかったのか、すっかり忘却の彼方なのですが、加納朋子さんが第三回の鮎川哲也賞を受賞してデビューした一九九二年、関ミス連(関西ミステリ連合)の会合に招待されたとき、ぼくがついて一緒に参加しました。その会合でいろいろと加納さんのお世話をしてくださったのが、光原さんだったのです。
 その前後にも、光原さんとは何度かお目にかかっているようですが、そういう機会に阪大のオーバードクターなのだが、なかなか勤め先の大学が決まらない、というような話をうかがっていたのでしょう。
 それならうちに来ませんか、とお誘いしたときには、尾道短期大学の講師の口が決まったところだったようで、体力的に編集者が務まるか自信がない、とすげなく断られてしまいました。ただしその代わりに、私の同輩を雇ってくれませんか、とおっしゃったのです。
 とにかく会って話そうと京都に出向いたぼくは、同伴の女性に引き合わされました。それが伊藤詩穂子といって、光原さんと阪大のミス研で一緒だった人でした。
 阪神淡路大震災の年、伊藤は東京創元社に入社し、光原さんはその翌年、満期退学されました。伊藤は当然のように、光原さんの『時計を忘れて森へいこう』を作りました。これは光原さんにとって初の推理小説の出版となりました。
 尾道短期大学、現在の尾道市立大学に着任されてからは、文芸創作を指導されながら、学生たちとミス研を作ったともうかがっていました。また、演劇にも興味を示されたと聞き、二〇〇八年に松本幸四郎、市川染五郎親子が共演した、江戸川乱歩作品を歌舞伎にした「江戸宵闇妖鉤爪(えどのやみあやしのかぎづめ)」にお誘いして一緒に国立劇場へ出かけました。ぼくが静岡英和大学でマスコミ論の集中講義をしたときにはゲストでお招きし、文芸創作の話をしていただきました。
 最後のやりとりはおそらく四年前、大好きな広島カープの黒田投手が、私費を投じて友人の新井選手の引退をねぎらう全面広告を中国新聞に出して話題になったとき、どうしてもその新聞がほしかったぼくは、光原さんにねだって買いに行ってもらったのです。
 もう勝手なお願いはいたしませんから、どうか安らかにお休みください。