新入会員紹介

新入会員挨拶

竹村優希

 この季節になると思い出すのは、以前勤めていた会社での火災訓練。同じビルに入るすべての会社が合同で行う大掛かりなもので、従業員は入社時に「消火班」「避難誘導班」「伝達班」などに班分けされる。(各十名ほど、五、六班ずつある)
 それぞれの班には班長がおり、さらに班長をまとめる隊長が存在する。(隊長は中間管理職。)
 私が所属していたのは消火班であり、隊長は田中さんという先輩社員だった。消火班はその名の通りいち早く火元に駆けつけ消化器で消火を行うわけだが、隊長にはすべての班を仕切るという重大任務があり、火元でそれぞれの班に的確に指示を出さねばならない。
 その指示にも決められたセリフがあり「消火●班、前へ」「消火準備よいか」「消火はじめ」そして終わり次第、「避難誘導に回れ」と叫ぶ。(ちなみに大昔の話です)田中さんはとても真面目な女性で、火災訓練は誰より熱心に取り組んでおり、そして毎回、そんなに極めます?と思うほどにストイックで完璧だった。
 事件が起きたのは、ある年の火災訓練時。その日、突如、消防署の職員が我々のフロアに立ち会うことが決まった。
 ただ、別に難しいことはなにもなく、立ち合われたところでいち班員の我々はどうということはない。隊長だけが、いつになく緊張していた。とはいえ我が隊長は誰より完璧であり心配などあるはずがない。
 そして、いざ火災訓練が始まり、我々消火班はすぐに消化器を持って火元へ駆けつけた。しかし、いつもならあるはずの「消火●班、前へ」という指示が飛んでこない。不思議に思って田中さんを見れば、消防署職員の視線に怯えてか顔面蒼白で震えていた。なんか後ろめたいことでも、と勘繰ってしまう程だったが、田中さんに限ってそんなことはあり得ない。
 しかし、待てど暮らせど指示は出されず、ついには消防署職員が痺れを切らして「隊長、指示を」と伝えた。
 田中さんは「ああ、ええと」と口籠もっている。どうやら、言うべきセリフがきれいに飛んでしまったらしい。ただ、人差し指で火元と班員を交互に指す仕草を繰り返しており、どうやら班員たちを消火位置に並ばせるためのセリフが必要であるということはわかっているようだ。ちなみに前述の通り、正解は「消火●班、前へ」。それ忘れます?と。さすがに緊張しすぎでは、と思ったものの、田中さんの緊張具合は想像以上だったらしい。
 いっそ私が叫んでしまおうかと考えたそのとき、田中さんはついに叫んだ。
「そこの者、前へ!」
 なんか殿っぽい、と周囲がざわめく。
 しかも、そこの者、と言った瞬間は私と目が合った。
 ちなみに、消防署職員が吹き出す瞬間を見たのは、後にも先にもこのときの一回きりである。
 ただ、田中さんはただでは転ばず、むしろそれを境にすっかり肝が据わったようで、セリフを忘れてしまったことなどもう知らぬとばかりに、我々の班の消火が終わった後、「前の者は去り、次の者前へ」と叫んだ。それは手元に幻の扇が見えそうな程の見事な采配だった。
 しかし、訓練後に消防署職員からは、「実際に火災が起こったときにそんなにガチガチだと死にますから、できるだけ冷静に」と注意をされた。
 本当にその通りではあるが、田中さんは精一杯頑張っていたし、普段から頼りになる田中さんが少々ミスをしたところで、私も含め後輩たちが向ける絶対的尊敬の念が揺らぐことはない。
 そして、田中さんには翌日から早速「殿」というあだ名がついた。

 入会挨拶のテーマは自由とのことだったので、この乾燥の季節にちょうどよさそうな冬の思い出です。これからよろしくお願いいたします。