リレー・エッセイ「翻訳の行間から」

パブのお作法

林雅代

 一年半ほど前から家庭の事情でロンドンに住んでいます。あちこち動き回って見聞を広めなくてはと思うのですが、歳をとってきたせいか一日に使えるエネルギーが限られているようで、ついつい近所のパブで一休みしてしまいます。
 初めてパブに行った時は、ビール一杯注文するにも一苦労でした。パブでは自分でバーカウンターに行って飲み物を買うのですが、バーマンの前には客が何人も立っています。フェアであることを重んじるイギリス人は、駅の窓口でも、店のレジでも、デパートや劇場のトイレでも、列になってじっと順番を待っていますが、さすがにパブでは並びません。日本にいた時でさえ混んでいる店ではなかなか注文できず、あとから来た人に先を越されていたわたしは、英語もおぼつかない上に体の大きなオジサン達に囲まれて注文などできるはずもなく、コインを握りしめたまま突っ立っていました。ところが、斜め前の男性が支払いを済ませ「次はわたしの番なんだけどな」と思っていると、バーマンが当然のようにわたしに顔を向けたのです。おお、わかってくれてたのね。
 その後、パブに行くたびに観察してみると、客は黙って立っているだけなのにバーマンはちゃんと把握しているらしく、正しい順番で客をさばいていき、割り込んで注文するふとどき者もいません。大画面テレビのフットボール中継がハーフタイムになると混雑しますが、そういう時でもバーマンが「次はどなた?」と訊くと、隣のオジサンが「次はあんただろ」と言ってくれたりします。どうやらここにも順番待ちの列は存在しているようです。イギリス人に訊いたところ、バーマンに気づいてもらおうと声をかけたり手を振ったりカウンターをこつこつ叩いたりするのは不作法で、目が会ったら微笑むか眉を上げるだけでいいのだそうです。そう言われても、典型的な日本人顔のわたしには眉を上げるという仕草は無理なんですけど……。
 まだ新参者だったころ、隣のテーブルで年配の男性客が口論を始めたことがありました。ひとりは背中を向けているので顔は見えませんが、正面のオジサンはがっしりした体格で目つきが鋭く怖そうでした。驚いて見ていると、視線に気づいたオジサンが、なんと喧嘩を中断してわたしに向かってきたのです。何事かと身構えていると、オジサンはかすかに口元を緩めて「あいつは俺の一番の友達なんだ」とだけ言い、席に戻っていきました。どうやらパブの常連は、たわいないことで議論をふっかけあって親愛の情をしめすのが好きらしく、余計な心配は無用のようです。
 何人かの仲間と飲むときは〈ラウンド・バイイング〉というルールに従わなくてはなりません。これはメンバーのひとりが全員の飲み物を買いに行き、次のラウンドでは別のメンバーが買いに行き……という具合に順番におごったりおごられたりを繰り返すというものです。わたしは家族といることが多いので、この面倒なルールとは無縁なのですが、まわりのグループを見ていると、たしかにグラスを両手に持ってカウンターとテーブルを行ったり来たりしています。五人のグループだったら五ラウンドか十ラウンドまで飲み続けなくてはいけないのだろうかと他人事ながら心配になるのですが、イギリス人に訊いてみると、三ラウンドで終わりにするときは、残りのふたりは次の機会に買いにいけば平等になるから問題ないのだそうです。やはりイギリス人は、なにごとも順番に、フェアにというのがお好きなようで。わたしも、ラウンドに参戦できるぐらいロンドンの生活に溶け込める日が来るといいのですが。
 次回は同門の友人、鈴木美朋さんにお願いします。