松坂健のミステリアス・イベント体験記

健さんのミステリアス・イベント体験記 第35回
弦楽器のみの生演奏で蘇ったヒッチコックの世界
シネマオーケストラ『サイコ』の上映会
2013年7月19日
東京文化会館大ホールにて

ミステリ研究家 松坂健

 「シネオケ」と、今、言うのだそうである。
 デジタル技術の進歩は想像を超える速度なので、え~、いつの間にこんなことができるようになったの、ということが世の中でたくさん起きている。
 シネオケもそのひとつだ。
 普通の映画から、主人公のセリフ音声、効果音だけを取り出して、他の映画音楽の部分を全部除去する。その映画音楽の部分を、生のフルオーケストラで演奏し、画面と同調させるというのがシネオケだ。
 音を除去するのがデジタル技術、しかし画面と生オーケストラの演奏をぴったりと合わせるのは、ひとえに指揮者のタクトの振り方次第。
 つまりアナログ技術だ。
 たとえば、有名なミュージカル『雨に唄えば』の土砂降りの中のジーン・ケリーのダンスナンバーは、音楽と効果音を除くと、ひたすら雨の音とジーン・ケリーのタップの音だけが響く。これに、彼の歌声を復元し、バック音楽を生オケでつけると、往年の名場面が大変な迫力で目の前に展開されることになる。
 この技法、実は一昨年から開発されて、静かなブームになりつつある。2011年が映画『ウエストサイド物語』の制作公開から50周年ということで、アメリカ、欧州、そして日本で、このシネオケ版ウエストサイドが上演されたのである。僕は、これも見に行ったのだが、いやあコントラバスだけで10台くらい使う大編成で、驚かされたこと。指揮者の佐渡裕さんが、作曲のバーンスタインの最後のお弟子さんということもあっての、熱気の棒ふり。一秒狂ってもお仕舞いという緊張感たるや、たいへんなものだった。
 ということで、そのシネオケを3本連続上演する試みが7月にあった。
 選ばれた3本は、『カサブランカ』『雨に唄えば』そして『サイコ』。演奏は東京フィルハーモニー交響楽団、指揮はこの時間合わせの魔術師といわれるニール・トムソン氏があたっている。
 ということで、ここで取り上げるのは、もちろん、アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』である。
 つい先日、公開されたアンソニー・ホプキンスが巨匠のそっくりショーを演じた映画『アルフレッド・ヒッチコック』は、『サイコ』のメイキング・プロセスをテーマにした映画だが、ここでも当然、映画音楽をどうするか、の問題が出てくる。
 現実には、それまでヒッチさんの作品を多く手掛けていたバーナード・ハーマンが呼ばれて、このなんとも説明しにくい陰気な映画のスコアを依頼された。
 その結果、生まれたのが、世界映画史上もっとも有名な45秒、ジャネット・リーのシャワーシーンにかぶせられたまるで電子音楽のように聞こえる、弦楽器のキュン、キュン、キュンというメロディだ。
 あの音楽がなければ、『サイコ』はなかったと思う。ヒッチ自身、この映画の成功の三分の一はハーマンのおかげ、と語っているのは有名な話だ。
 この切羽詰った楽曲が、生でどう演奏され、緻密をきわめた画面構成(たった45秒に60カット使われている!)とゆるみなくフィットするか、それもまた大きなサスペンスということだったのである。
 この『サイコ』に限って、檀上は弦楽器のみ構成。これは元のスコアが弦でのみ演奏されていることを忠実に踏襲している。解説書によると第一バイオリン14、第2バイオリン12、ヴィオラ10、チェロ8、コントラバス6の編成だそうである。しかも、すべての楽器に弱音器をつけて、弦楽器ののびのある艶っぽい音を排除し、ただひたすら音とリズムを刻むような感じで楽曲を仕上げたという。
 ハーマンはモノクロ仕立ての画面に合わせて、音もモノクロにしたと語っているそうだ。
 巻頭から流れる不安感たっぷりな「プレリュード」は、ジャネット・リーの現金持ち逃げの逃避行を彩る。そしてベイツモテルに着いた時から、転調が始まり、シャワーシーンに至る。ハーマンはのちに、『サイコ』の一連のメロディの流れを、交響詩としてサントラとは別にリリースしているので、そちらを聴くのも一興だろう。
 それにしても、作曲のバーナード・ハーマンは、1938年にオーソン・ウェルズが制作・出演し、全米をパニックに陥れたラジオ番組『宇宙戦争』(火星人地球を侵略す)の音楽を担当している。そして、その流れでアメリカ映画史上ベストワンの『市民ケーン』の音楽を担当している。まさに、エポックメーキングなところに起用されているところに、彼の前衛性がうかがえるところだ。
 その後、『ハリーの災難』でヒッチと出会い、多くの作品で一緒の活動をつづける。
 クラッシックの演奏会がクライマックスになる『知りすぎていた男』では、自ら指揮者役で出演も果たしている。
 いずれにしても、このシネオケ、画面の臨場感がいやが上にも高まる。とても楽しい試みだ。
 今回、この企画を持ち込んだアメリカの映像プロデューサー、ジョン・ゴバーマン、指揮ニール・トムソンのコンビには他にもレパートリーがあって、その中に、同じハーマン作曲の『北北西に進路をとれ』がある。めくるめくようなメロディが連鎖して、主人公がどんどん理不尽な状況に追い込まれるこの映画も、ぜひともシネオケで見たいものである。
 それにしても『サイコ』はすごい映画だ。恐怖映画のパターンを確立し、多くのスターの人生を変えてしまい(あのトニ・パキはついに健康的なアメリカンボーイの世界に帰ってくることはなかった)、また映画の途中で観客が入場する制限を課した(今、当たり前だが、この習慣を根付かせたのは『サイコ』といわれている)。そして、弦楽器のみの単色で音楽をつける革命的な試みも!