松坂健のミステリアス・イベント体験記

健さんのミステリアス・イベント体験記 第87回
昭和初期ミステリの源流を山梨、群馬に探る湯村の杜 竹中英太郎記念館探訪(甲府)と群馬前橋・土屋文明記念文学館『ミステリー小説の夜明け』展(2019年4月13日~6月9日)

ミステリコンシェルジュ 松坂健

 協会主催の土曜サロンで、お出かけ企画として、山梨県・甲府の湯村温泉の竹中英太郎記念館に行くことになったので、鋭意、参加することにした。
 前々から一度は足を運んで、主に乱歩。正史の挿絵を担当した英太郎の画業に親しく接したいと思っていたからだ。参加者は世話人の本多さんを含め、総勢7名。英太郎氏のご息女の竹中紫(ゆかり)さんの思い出話も聞けるとあって、甲府駅集合、バスで湯村温泉入り口、そこから高台を登る感じで7,8分上がっていくと、瀟洒な記念館が出現する。
 元はもちろん竹中家の持ち家で紫さんがずーっと住んでおられたところだが、自宅を改装、そしてその一部を二階建てのサロン風の絵画館にしたものだ。
 一階、二階とも壁面は挿絵の原画で埋められ、他に挿絵が掲載された雑誌や息子の竹中労氏の著作物(戦後は労氏のためだけに画筆をとった)などが展示されている。
 品のいい家具が置かれ、ソファに座らせていただくと、そのまま昭和初期の、そう乱歩の小説に出てくる上流階級の家の居間にいるような気がしてくる。そこに女主人として、紫さんが艶然と微笑まれていると、どこからか明智探偵が訪ねてくるような雰囲気になるほどだ。ということで、紫さんと旦那様の思い出話を聞くことに。
 まずは、原画収集のご苦労。もともと、挿絵は消耗品扱いで、画家の元に戻ることがない性質のものだった。ずいぶんと芸術としての位置は低かったのである。
 しかし、英太郎の場合はとてもラッキーなことがあって、竹中家に原画が戻ってきた。
 英太郎の主たる活躍の場は博文館の新青年誌。この頃の出版社は原画などはゴミと同じ扱いでバッタ屋さんに出していたようだ。ただ、その業者さんの中に、捨ててしまうのはもったいないと英太郎さんの原画を保存してくださる方がいて、そのおかげで原画が戻ってきたというのである。ということで、ただ一点、紫さんがいちばん好きという正史の「鬼火」のものを除いて、すべて原画の展示というところに値打ちがある。
 英太郎の挿絵画家としての全盛時代は大正末期から昭和10年まで。
 たいへんな売れっ子で、当時の月収を今の貨幣価値で換算すると3000万円くらいあったのではないか、と言われるほどだ。
 その耽美的で繊細な画風はまさに乱歩や正史、久作の妖かしの世界にぴったりだったが、昭和10年にきっぱりと断筆し、満洲渡り(4年間)を経て、甲府・湯村の現在の地に隠棲、その後、昭和42年まで画筆をとらなかった。
 英太郎氏はその画風からは想像もつかないが、若き頃は水平社運動にも参加したり、北九州筑豊の炭鉱労働者に無産者同盟(社会主義運動)への加盟を呼びかけるオルグ活動に挺身するなど、アクティブな革命運動家だった。いわば、その資金調達のために手を染めたのが挿絵だったのだが、その思いがけない成功は莫大な富をもたらしたものの、終生、「虚名」と恥いっていて、絶頂期での断筆となった。明治生まれの人はこういうところでは潔いものだ。甲府に引っ込んでからは、地域の民主化運動のお手伝いをしたりしていたというが、家庭では毎朝、学校に行く紫さんを高台の上から手を振り、時には大流行していた「シェー」のポーズでおどけたりする愉快な一面もあったとのこと。
 この反体制的なDNAを見事に受けついだのが竹中労氏。政界、芸能界、タブーをおそれず、筆一本で「えらい人」を斬りまくるルポライターの鏡として、今も敬愛の対象になっている人だ。
 そんな労さんが「僕のためにだけでも絵を描いてよ。それもカラーで見たい」と半ばおねだりした結果、昭和42年に30年ぶり筆をとった。しかし、その後は労さんがらみのものだけに作品を提供し、昭和63年、昭和の終焉を見届けるように虚血性心不全で急逝。
 あの繊細で耽美な作風の陰に、大正デモクラシーで育ち、社会革命家としての生涯を目指した激しい労働者魂があったとは!
 人間の精神の振幅というものには、余人の窺いしれないものがあるのだなあ、と思う。
* * *
 5月はなぜかミステリの昭和初期を回顧する機会に恵まれた。
 土曜サロンの翌日は、群馬県立土屋文明記念館で開催された「ミステリー小説の夜明け」展にお出かけ。
 なぜ、群馬でミステリーかというと、100歳を超えて生きられた大長老、渡辺啓助氏(2002年没)が戦後の数年間、渋川で暮らし、そこで詩の同人誌(「B」という誌名)を発刊するなどの縁があったからという。この人がミステリ作家のなかでもとくに詩人的な体質があったものを思わせるものだ。
 その体質は弟の渡辺温にも顕著だが、温はご存知のように27歳で自動車事故死を遂げている。そんな渡辺兄弟を顕彰する意味もあっての展覧会となった。展示は啓助、温の作品の軌跡に加え、乱歩、正史の青年作家時代のもので構成されている。まさに「夜明け」のテーマに沿っている。
 記念講演は成蹊大学文学部教授、浜田雄介先生の『探偵小説という文学 渡辺兄弟の二十世紀』(5月19日)と題するものと、横山秀夫氏の公開インタビュー『直接聞きたい作家の話』(5月26日)のふたつ。
 僕は浜田先生の方に参加してきた。
 啓助の誕生日には諸説があるらしく、1901年、1902説とあるが、1899年説もあり、浜田先生は1899年説を採用している。そうすると、亡くなったのが2002年だから、1800年代、1900年代、2000年代と足掛け300年代(3世紀)を生きた人となる。大したものだ。
 戦前は『偽眼のマドンナ』『聖悪魔』『地獄横丁』などの耽美派ミステリで名を残した啓助だが、戦後のこの渋川時代は思うような作品を残せず、苦吟していた様子もあると浜田氏はいう。
 探偵雑誌宝石誌に高木彬光氏などが鼎談書評で、宝石誌の前を俎上に乗せ、啓助作品を「かつての悪魔主義のような輝きがない」と決めつけたことがあった。
 渋川時代の啓助は原稿の反故紙を綴じて、その裏に日記を認めていたそうだが、その一部に宝石発表の作品をけなされたことへの抗議文が書かれていたことを浜田先生が発見されている。反故紙はいわゆる袋とじで止められているので、本来の表面に何が書かれていたかは、そっと覗いてみなければ分からないが、浜田先生のお見立てによると、どうやら論われた作品の裏紙に書かれたもののようだ。
 ご本人は悪魔主義などと言っていないのに、はるか昔のレッテルのまま今も評価されていることへの口惜しさがあったようだ、と浜田氏は分析する。
 こういう研究は本当に意義があると思う。激しい労働運動の闘士を目指しながら、真逆の耽美な作品を残した竹中英太郎、戦前に貼られたレッテルで苦しみ続けながら秘境小説を書き続けた啓助。作家の実態というものは、やはり「ミステリ」なのだなと思う。