リレー・エッセイ「翻訳の行間から」

下町ワンダーランド

阿尾正子

 前々回のこのページで林雅代さんがロンドンのパブのことを書いていらしたが、わたしの住む東京の下町にもおとなの社交場がある。
 昔ながらの大衆酒場だ。
 「えー、大衆酒場って耳に赤エンピツ挟んだオジサンが昼間からグラス酒飲んでる、煤けた感じの店でしょう?」
 はい、わたしもずっとそう思っていました(すみません)。
 たしかにどの店も昭和を感じさせる外観で、言い換えれば、ぼろっちい。入口は曇りガラスの引き戸が多く、なかの様子をのぞけないところも初心者にはハードルが高い。でも大きくひとつ深呼吸して引き戸を開けると店内は意外にも明るく、きれいだ。L字の長いカウンターに、小上がりかテーブル席。大きな花瓶に枝ものが生けてあったりする。カウンターのなかに立つお姐さんは手際はいいが無愛想で(ただし、ぶっきらぼうというのとは違う)、そのぶんお客はやさしい。
 先日、初めての店を訪れたときのこと。やはり「えいっ」と気合いを入れて引き戸を開けると、店内はほぼ満席。「あー、これはだめかな」と思っていると、カウンターにいた男性(推定年齢六十三歳)が「おっ。俺もう行くから、ここ空くよ」と、すっと席を立った。すると、すかさず別の女性客(同じく五十七歳)が「ちょっとアンタ、そこひとつ詰めて」と隣のふたり連れに声をかけ、あっという間にわたしと友人の席ができてしまった。
 ありがとうございますと頭を下げると、その女性は「せっかく来たんだもんねえ」とにっこり笑い、何事もなかったように連れの男性との会話に戻った。かっこいい。そう、大衆酒場では普通のオジサン、オバサンがかっこいいのだ。
 異様にメニューが多いのも特徴だ。どの店も壁が短冊でびっしり埋まっている。刺身や煮込み、焼き鳥などの定番はもちろん、「おっぱい焼き(豚の乳房の串焼き)」「揚げラビオリ」というめったにお目にかからないものから、カレーライスや丼物(!)まで、ありとあらゆる料理が並んでいる。すべて制覇するには何年もかかりそう。しかも、どれもお安い!
 生ビールで喉を潤したあと、次に注文するのはチューハイならぬ「酎ハイ」。この「焼酎ハイボール」は焼酎に炭酸水とその店独自のエキスを入れたもので、チューハイほど甘くない。氷は入れないのが通の飲み方で(わたしは入れてもらいました)、レモンスライスがひと切れ浮かんでいる。お代りを頼むと、同じグラスにレモンがもうひと切れ足される。これで何杯飲んだかわかるというわけ。飲み口はさわやかだが、けっこう強いのでご注意を。
 ひとつの店で腰を据えて飲むのもいいけれど、何軒かはしごするのもまた楽しい。
 最寄り駅から京成線で行く立石は「呑んべえの聖地」といわれる町で、駅舎を挟んで大衆酒場がずらりと軒を連ねている。以前、友人と「一軒(ビール)一本」のしばりで何軒行けるか挑戦したことがある。まずは立ち食い寿司でウォーミングアップのあと、三十分ほど並んで鶏の半身の唐揚げ(絶品です)が有名な店に入り、お姐さんに「荷物はテーブルの下!」と叱られながら捌き方を教わる。腹ごなしに次の店を物色しつつアーケードをぶらつき、ワインも置いてあるちょっとおしゃれなおでん屋さんに決めた。ここで本格的に飲みはじめてしまったので、結局三軒どまりだったけれど、まるでおとなのテーマパークに来たようで、とんでもなく楽しかった。
 毎年、11月11日の「立ち飲みの日」には町ぐるみのイベントが行われるようなので、興味のある方はぜひどうぞ。