土曜サロン

乱歩は小説をどう書いたか――資料で見る執筆過程土曜サロン・第223回 二〇一八年五月十九日

 江戸川乱歩旧宅は、現在立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターとして活用されている。この施設で二〇一七年まで学術調査員として数々の発見をした文学研究者の落合教幸さんに、乱歩の遺品や遺筆から判明した貴重なお話を伺った。
 乱歩が立教大学そばに移り住んだのは、昭和九年のことだった。それまで頻繁に引っ越しを繰り返していたにもかかわらず、亡くなるまでこの地に住み続けた。しかし、戦後に乱歩は熱海か伊豆に引っ越したいと思っていたと、ご遺族から落合さんは聞いたそうだ。またよくある質問で「乱歩は一生のうちで何度引っ越しをしましたか?」や「乱歩の住んだ家はいくつありますか?」と訊かれるけれども、池袋に腰を落ち着けた後も福島に疎開をしたなど、自宅を残したまま別の場所に住んだ場合もあるので、なかなか難しい質問だと、おっしゃった。
 乱歩邸を立教大学が買い取った裏話も披露していただいた。学内では、表向きは日照権問題を解決するためにという口実だったそうだ。その後、豊島区の文化財に指定された蔵は残すものの、母屋を取り壊す案も持ち上がったという。隣の校舎がかなり老朽化しているので、建て直しが行われるときに、乱歩邸も巻き添えになる恐れは、まだあるそうだ。乱歩ファンや推理小説関係者は、まだまだ安心できない。
 乱歩邸の象徴ともいうべき蔵は、建築当初は灰色だったけれども、戦中か戦後に白く塗られたらしい。しかし修復にあたって、当初の灰色に戻した。蔵の中は夏でもひんやりとしていて図書の保存には理想的なので、一階の蔵書は昔どおりに本棚に収納されている。またかつて蔵の周囲に増築された渡り廊下の本棚の本は、母屋に新しく棚を作り、蔵の二階の和本だけは、大学図書館の貴重書部門で保管をしているそうだ。
 特に和本は、乱歩の図書カードが残っているおかげで、いつ買ったか、そして手放したかがすべて記録されている。ちなみに乱歩の和本コレクションの中でも特に貴重な『好色一代男』(井原西鶴)は、五万円で購入したという記録が残っているが、現在は二千万円の価値があると紹介いただき、皆が驚いた。
 また一般の本でも、たとえば『陰獣』の水死体に関する記述の参考にしたと思われる法律書の、ちょうど問題のページが切り取られているので、まさしく乱歩が参考にしたことが伺われると、毎日乱歩旧蔵書をお調べになっていた落合さんならではの発見を教えていただいた。このように、一見なんのこともない本も、よく吟味すると、乱歩の創作の源になっていたことがわかるとおっしゃっていた。だから同じ本が複数あっても、両方とも保存しておかなくてはいけないのだという。
 図書以外にも、乱歩が残した膨大な書簡、切り抜き、原稿などが残されていて、落合さんは多大な労力をかけて、その内容を分類して明らかにしていった。
 たとえば、乱歩の最後の作品『超人ニコラ』は、晩年にパーキンソン病を患っていたことから、家族が筆記をしたのではないかとも言われていた。しかしその本原稿こそ残っていないものの、乱歩自身の震える文字での書き損じ原稿用紙が数多く残っているので、本人がその手で執筆したことがわかると、おっしゃった。
 乱歩の初期作品の草稿もいくつか現存しており、乱歩は何度も書き直しを重ねて完成原稿へと導いていくタイプの作家であることが、わかったそうだ。たとえばデビュー作「二銭銅貨」は、草稿では夫婦の話だったのが、二人の青年の話に変化した。また「恐ろしき錯誤」は、一つ目の草稿では手紙形式、二つ目の草稿では人から聞いた話の形だったが、最終的に主人公よりの三人称となった。「D坂の殺人事件」は、草稿では明智は事件を依頼されていたが、完成稿では巻き込まれ型になった。「人間椅子」では、事件を回想する形だが、奇妙な書簡の形で落ち着いている。
 このような手法を取る乱歩は、やはり中短篇向きの作家であり、長篇には向いていないのだろうというお話だった。