追悼

加藤廣さんの思い出

若桜木虔

 加藤さんからは、今年の一月中旬に「今は寒いので、暖かくなったら、次の作品の構想について、相談したい」旨のメールを頂戴していた。
 加藤さんとは頻繁にメールを遣り取りしていて、頭脳の衰えなどは全く感じさせない文面で、ただ、二度に亘って心臓の手術をしておられたので、それだけが心配の種だった。
 四月頃にはお会いできると思って、メールを差し上げたが、三月以降のお返事がなく、これは、と心配していたところに訃報に接して、愕然となった。
 加藤さんが初めて、私の主催する小説講座に「小説家になりたい」と言って見えたのが七十三歳の時で、既に、その時点で加藤さんは経済評論家として超有名人で、テレビにも頻繁に出ておられた。
 正直「何を酔狂な」と思ったのだが、「私は本気です。もう、取材費も一千万円以上を注ぎ込んでいる」と仰って、既に書き上げた原稿をご持参された。
 それが実に四千枚以上もあって、さすがの私も読破するのに半日を要した。構想は斬新で、奇想天外で、実に素晴らしかった。
 それでも、私は「これだけの大長編を、小説家としては無名の加藤さんがお書きになっても、出してくる版元は、ありません。三分割しましょう。手を入れさせていただきます」と申し上げて、ご了解いただき、無駄な贅肉を落とし、時系列などの順番を入れ替え、視点人物を減らす、などの作業に取り組んだ。
 これが『信長の棺』『秀吉の枷』『明智左馬助の恋』の三部作である。ごく一部、後に出る『空白の桶狭間』の構想めいたものも含まれていたが、これは少量だったので割愛した。
 少し時代考証的におかしな部分もあったので、これは小説講座の授業の中で意見を戦わせて煮詰めた。この時には、後に角川春樹小説賞を受賞して時代劇作家としてデビューすることになる鳴神響一さんも、生徒として来ていた。
 で、とりあえず数ヶ月で『信長の棺』が完成を見たので、日本経済新聞社への持ち込みを「日経は時代劇が好きですから」とお勧めした。
 加藤さんは「経済評論家時代のコネは使いたくない。あくまでも新人として実力で勝負したい」と仰ったが、「いや、とにかく、この世界はデビューすることが肝心ですから」と強く申し上げて、伝手を辿って日本経済新聞社に持ち込んでいただいた。
 こうして、首尾良く七十五歳で「文壇最年長デビュー」を果たされた。その後のご活躍は周知のとおりである。
 私の小説講座は毎年、二月の頭に新年会を開いていて、全国各地から講座出身の生徒が来てくれるが、加藤さんも四年前までは欠かさず出てくださった。
 その都度、後輩を励ます言葉を掛けてくださり、その際の写真も私のパソコンに画像データとして保存されている。改めて見ると「惜しい方をなくした」と、涙が込み上げてくる。