松坂健のミステリアス・イベント体験記

健さんのミステリアス・イベント探訪記 第74回
ベルリンの壁、崩壊から1万314 日。
麻布のドイツ大使館前で、ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』を想う
2018年2月5日
南麻布・ドイツ連邦共和国大使館前<

ミステリコンシェルジュ 松坂健

 壁に描かれた落書きを鑑賞しに、わざわざ麻布にあるドイツ連邦共和国の大使館まで足を運んだ。
 もちろん、理由がある。
 「壁」というキーワードなら、もっとも象徴的に出てくる言葉はベルリンだろう。
 実は、この2月5日が壁が崩壊して1万314日目の記念日だったというのである。
 ずいぶん半端な数字で、なんでこれが記念の数字なの? と思われるかもしれないが、深い意味がある。
 ベルリンの壁が完成し、当時の東ドイツが東西ベルリン市民の往来を禁止したのが、1961年8月13日。そして、壁が崩壊した日が1989年11月9日。その間、経過した日数が1万314日間だった。つまり、崩壊してから、同じ日数に達したのが、この2月5日だというわけなのである。
 壁が存在した時間よりも長く崩壊後の時間が流れたことになる。28年と3カ月余り。
 ベルリンの壁の存在を少年の頃から知っている世代には、十分、センチメンタルになっていい事実だと思う。だって、この壁は永遠に続くもの、とみんなが思っていたし、思わされてもいた。厳然と存在し、そこを破ろうとした東ベルリンの人たちが無残に銃撃されたりするニュースも実際によく聞いていた。それが1989年11月9日、一気に壊れてしまうというのは、寝耳に水をこえたニュースだったからだ。
 いささか。個人的な回想になってしまうが、ベルリンの壁には思い入れがある。
 なんといっても、ジョン・ル・カレの名作『寒い国から帰ってきたスパイ』だ。
 英国で1963年出版され、すぐベストセラーになり、日本で翻訳が刊行されたのが1964年10月。早川書房の単行本の新シリーズ、ハヤカワノベルズの第一弾で、本の背に描かれたシリーズとしての統一ロゴデザインが、ベルリン分断の象徴、ブランデンブルグ門のイラストだった。
 EQMM(現在のミステリマガジンの前身)の洋書紹介コラムで、驚くべきスパイ小説が誕生したと何度も触れられていた。僕などはその記事を読むたびに、胸が高まり、翻訳が出ると同時に本屋で買い求め、その晩、一気に読了、頭の後ろをフライパンで殴られたような衝撃があった。
 巧緻に組み立てられたプロット、いわくありげな登場人物たち、「サーカス」などという特殊専門用語が横行する世界、それまで愛読していた本格推理小説にない臨場感に一気に惹きこまれた。それで、結末のサプライズは本格もの以上ではないか。ということで、その日からいつか、自分の目で壁を見てみたいと念願していた。
 東京12チャンネル(テレビ東京)は毎年、新春にアメリカのキッシンジャー博士に国際ジャーナリストの日高義樹氏がインタビューし、その年の国際情勢を語らせる番組をもっていた(日高義樹のワシントンレポート)。その1989年版を新春早々見ていたら、仰天の発言がキッシンジャー博士から飛び出したのだ。いわく「今年は共産圏で多くの出来事が発生する。ベルリンの壁がなくなる日は意外に近いかもしれない」。え~、って感じだったが、このキッシンジャー先生の予測は本当に当たるんだね。ちなみに、最近では2016年に「危険なのは日本の安倍首相」などと言っておられる。そんなことはさておき、僕の一家はその夏、フランクフルトにいる姉の家を訪問した。ドイツ国内の旅行はどう、という姉の提案もあり、僕は即座にベルリン行を志願し、東ベルリン観光ツァーをしたいと申し出た。「なんでベルリン」といぶかる姉夫婦にキッシンジャーの予言の話をし、壁がなくなる前に見ておきたい。触っておきたいというと、姉の旦那(ドイツ人)が「西ドイツでそんなことを言っている人はだーれもいません。ずーっと壁はあり続けると思うよ」とあきれ顔だった。
 しかし、博士の予言は当たり(やはり特殊な情報源を持っているのだろう)、僕は8月、「憧れ?」のチェックポイント・チャーリーを通過して東ベルリンの地を踏んだ。
 観光ツァーだから乗り合いバスだが、長いヘラの先に鏡をつけたもので車体を探ったり、太ったいかにも共産党! という感じの制服おばさんが乗り込んで、全員のパスポートを預けなければならなかったり、やはり、その緊張感はエスピオナージ! という感じだった。入った東ベルリンは空気にうすい青色がついていて、それは排気性能の低い東ドイツ製の車、トラバントの出す排気ガスのためだった。いやあ、空気、悪かったなあ。
 そんなことで、1989年11月、ニュースで壁を打ち壊している若者たちの姿をみて信じられない思いだった。ル・カレはどう考えただろうな、とも思った。
 そして、昨年秋、ル・カレからびっくりするニュースが届いた。あの『寒い国』の続編が出た、というのである。崩壊後1万日たってからの続編。いったいどんなものだろうと思う。ミステリでは何十年たったあと、続編が書かれて、それが失敗に終わるケースが多いとされる。代表はアイラ・レヴィンの『ローズマリーの息子』で、書かんでもよかったのに、とみんなを嘆かせたので、ル・カレにも不安の声は多かった。
 だが、しかし、である。
 『寒い国』から54年かかって出された続編『スパイたちの遺産』は、いまだに「組織と個人」の問題に決着がついていないことを、教えてくれる。ル・カレのストーリーテリングの冴えはまったく衰えていない。読了後、どうしてもジョージ・スマイリーやアレック・リーマスとその恋人が佇んでいた壁の雰囲気をもう一度見たくなった気持ち、お分かりだろうか?
 僕の感想をいえば、質量のあった壁が壊れてしまったあと、むしろ目にみえない、よりたちの悪い壁が人々の心の中に拡散して出来上がってしまったような気がする。ル・カレは冷戦終了後は、むしろそんな心の中の壁をテーマに小説を書いているような気がする。
 日本初出版から新作が出るたびに買い求め全作品をえんえんとリアルタイムで追い続けている作家は、僕の場合、ル・カレとコリン・デクスターだけだ(フランシスは途中で落馬しちゃった)。あとがきによると、まだあと一冊は書き残しそうである。