新入会員紹介

私と水沢秋生

水沢秋生

 このたび、推理作家協会に入会させていただきます水沢秋生と申します。
 私は二〇一二年、「新潮エンターテインメント大賞」という賞を頂き、水沢秋生としてデビューいたしました。「新潮エンターテインメント大賞」は、今はなくなってしまった新人賞ですが、毎回異なる作家の方がひとりで選考委員を務められるというユニークなもので、私が受賞した第七回に選考委員を務めておられたのが、今回推薦を頂いた恩田陸さんでした。そしてそのデビュー作「ゴールデンラッキービートルの伝説」の書評を書いて下さったのが、これも推薦を頂いた吉田伸子さんです。お二方には重ね重ね感謝を申し上げます。それにしても、なんと幸せなデビューだったことでしょう!
 さて、先ほど「水沢秋生としてデビュー」と申し上げましたが、それというのはその以前、別の名前でライトノベルを書いたり、ライターとしていくつかの名前を使いまわしたり使い捨てたりしながら記事を書いたりしていたからで、要するに、名前がいっぱいあったわけです。
 これがたとえばスポーツならスポーツ、車なら車、金儲けなら金儲け、分野はなんでもいいのですが、そこに専門性と誇りを持って文章を書いているライターならペンネームを変えたりせず、ひとつ名前を貫くべきでしょう。が、そもそもバイトの延長のような感じで文章を売ってお金をもらい始めたこと(初めてお金をもらった仕事は「動物占いの次に来るのはこれ! おでんの具占い!」でした。「ちくわのように見えてちくわでない、二面性が魅力のあなたはちくわぶタイプ!」とか、そんな感じの)や、生来の遁走癖と飽き性のせいで、気づいたときには「仕事によって名前を変える」というのが習慣となっておりました。顔を整形し偽名を使いながら逃げまくっていた人のようですね。それに、いくぶん社会不適合気味ではあるものの、就職情報誌に「面接に強いスーツスタイル!」などと書いている人が、別のメンズ誌で「目指せ、この夏こそ童貞脱出!」とかやってるのがばれたら、それはさすがにあかんやろ、と考えるぐらいの社会性はあったのです。名前の中には「猪熊牛五郎」などという一回だけで捨てることを前提に付けたこと丸分かりのものもあり、ときおりそんなことを思い出しては「すまん、猪熊」などという気持ちになることもあるのですが、ともかくそのように名前を変え文体を変え、今日まで生き延びて参りました。
 もちろんそんなライターに大した仕事などあるはずもなかったのですが、まあ、コラム、インタビュー、エロ、インテリア、電化製品、パチンコ、読者からのお手紙の捏造、手当たり次第にやっていたものです。ああ、「住宅メーカーの広告を取ったのだけど相手には特に宣伝したいことがないらしいのでお前適当に埋めてくれ」などということもありました。景気がいいのかしみったれているのかよく分からない話です。
 まったくお恥ずかしい限りです、と書いていながら、実はそれほどお恥ずかしい気持ちを感じないのは、子供の頃から嘘とホラとを親しい友としてきたからでありましょうか。学校に行きたくないと思っては、「腹が痛い」「しくしく痛い」「ときどき脈打つように」「肝臓の辺りに圧迫感が」などと言い訳を重ねて十余歳にふさわしからぬ語彙を獲得し、かわいい女の子の気を惹こうとして「実はうちのおかん、ロシア貴族の血ィ引いてんねん」と一族をめぐる大河ロマン調スペクタクルを物語ったりしていた私、よくもまあ、両手に冷たい輪っかを嵌められることなく今日まで暮らせたものです。
 とにかく累々たるペンネームの山を乗り越えて、ようやく水沢秋生に辿りついたわけでありますが(ちなみに「水沢」の名前は、デビュー時にお世話になった、歌う編集者としても知られる新潮社のベテランお姉さん、K姉さんに付けていただいたものです。「なんか水っぽいのがいいんじゃないの」というのが理由でした)、今後は変えていくのはテーマとジャンルと文体にとどめ、「水沢秋生」でやっていきたいと硬い決意を固めている次第であります。正直に申し上げますと、実は今でも「違う名前で新人賞に応募したほうがええんちがうか、収入的には」などと考えることが(わりと頻繁に)あるのですが、それは今でなくてもできること。出来ますれば、あと四十年ぐらいはこの名前で真摯にホラを吹いて参りたいと思っておりますので、どうぞ皆様、末永くよろしくお願いいたします。