追悼

追悼、船戸与一

北上次郎

 いまから20年前の「本の雑誌」に掲載された編集者の匿名座談会を思い出す。その座談会で、ある編集者が発言していたことが今でも忘れられない。冒険作家クラブは作家同士の仲がよくて特殊であるとの発言を受けて、その方は次のように発言した。

 その仲の良さのクォリティが昔の文壇と違うのはね、軽井沢にみんなが集まった時、藤田宜永の『パリを掘り返せ』を例に出して、船戸与一が本人に言うのよ。たとえば、向こうから数人の男が現れたという表現があるけど、数人の男ってお前見えたんだろ、こういうディテールは七人なら七人と書け、その代わり、ここに思想的に剥き出しの表現がある、こういうのこそ多義的にやれ、なんてね。それをみんなが聞いてるわけ。結構ぼくらもタメになる。作家同士でそういう批判をきちんとやるのはいいなと思う。

 こういう会合が何回行われたのかは知らない。たまたま飲んでいるときにそういう話の流れになったのかもしれないし、このときだけだったのかもしれない。私は冒険作家クラブの第1回の集まりには参加したけれど(会場は新宿のアフリカ料理の店だったと記憶し
ている)、作家の方々とはほとんど会わないまま過ごしてきた者なので、詳しくはわからない。しかし、結果的に勉強会のような、こういう会合がこのとき一度だけだったとしても、冒険作家クラブにおける船戸与一の位置を象徴するような挿話だと思う。
 作家の方々とプライベートに会ったことはほとんどなく、その逸話も前記の匿名座談会で語られたことだけしか知らない私が、こんなことを言うのも何なのだが、船戸与一は八十年代に勃興した冒険小説ムーブメントの中心にいた作家であり、その精神的な支柱であった。そう断言しても間違いではないと思う。
 デビュー作『非合法員』が生まれたいきさつについては、2015年1月刊の小学館文庫版の巻末に「デビュウ事情」と題してご本人が書いているが、このときの担当編集者白川充の側の事情は、新保博久『ミステリ編集道』(本の雑誌社)に詳しい。興味のある方は一読されたい。
 一九七九年のそのデビュー作『非合法員』から、『山猫の夏』(吉川英治文学新人賞)、『猛き箱舟』(日本冒険小説協会大賞)、『伝説なき地』(日本推理作家協会賞)、『砂のクロニクル』(山本周五郎賞)、『虹の谷の五月』(直木賞)、さらには全9巻の『満州国演義』まで、船戸与一が残した作品をいずれはきちんと論じることが求められると思うが、それは若い研究家にまかせたい。合掌。