松坂健のミステリアス・イベント体験記

健さんのミステリアス・イベント探訪記 第43回
東都書房で日本推理文壇に爽やかな風を送った原田裕さん90歳の出版記念パーティ
2014年9月19日
原田裕さんの出版を祝う会
(於・四谷主婦会館プラザエフ)

ミステリ研究家 松坂健

 講談社入社が1946年。それから68年間。今も出版芸術社の会長として毎日出社しておられるというから、まさに現役編集者として最長老といっていいと思う。卒寿、90歳を迎えられた原田裕(ゆたか)さんの出版記念パーティが、2014年9月19日、四谷駅前の主婦会館プラザエフで行われた。
 その業績の背景は今回出版された『出版人に聞く 戦後の講談社と東都書房』(論創社)に詳しいが、原田さんは、講談社から枝分かれした東都書房の主幹として、日本推理小説大系全16巻の編纂、いきのいい現代ミステリを標榜した東都ミステリーシリーズなどを発刊し、1960年代のミステリブームの下支えをしてくださった日本推理文壇の影の庇護者といっていいお方だ。
 その編集者人生をまとめたのが、前掲の書籍だが、これは原田さんの思い出を小田光雄氏がまとめ、構成したものだ。
 もとよりミステリ史としてのみ構想された本ではないので、講談社の戦後すぐの歩みから話がスタートしている。戦前からつづいていた大衆雑誌「キング」の最後の編集長としての活躍などが興味深い。ふと思いついて立ち寄った松本清張邸では、早々に帰るつもりが「キング」編集長と知った清張さんが感激して離さなかったなどというエピソードを読むと、いかに雑誌の編集長のステータスが高かったか、またキングという雑誌の影響力の強さを思い知らされる。そういう血肉を伴ったエピソードが読めるのが、こういうオーラルヒストリーの妙味だろう。
 それにしても、原田さんが山岡壮八の『徳川家康』と原田康子『挽歌』石森延男『コタンの口笛』など戦後のベストセラー誕生に寄与していたというのは凄いことだ。
 「家康」は経営学ブーム(坂本藤良著のカッパブックス『危ない会社』で一大経営学ブームが起きた)と結びついてのロングセラー化、『挽歌』の方はムーディな宣伝広告や映画などとの連携、今でいうメディアミックスの典型と、それまでのベストセラーづくりとはちょっと手法を変えた斬新さがあった。まさに出版プロデューサーのはしりというべきだろう。
 そして一大仕事の日本推理小説大系の編纂(1960~1961)。
 編集委員が乱歩、中島河太郎、松本清張、荒正人、平野謙。編纂の実務は河太郎さんが行ったと推定されるが、涙香の『無惨』を収録した明治大正編から始まって、中短編を収めた『現代十人集』まで、実に目配りよく、名作を網羅していて、まさに「大系」とはこういうものを指すといっていいと思う。僕自身の日本ミステリ歴は、荒川図書館(なぜか、ここに通っていた)で読んだ第7巻『横溝正史集』で『本陣』『蝶々』『獄門島』の三大名作を朝10時から夜の8時までほとんどワンスイッテイングで読み切った時から始まっているのだから、その行き届いた編集ぶりに感謝、感謝だ。
 そして、東都ミステリーシリーズ。この新書版よりちょっと大きめのハンディなシリーズは、都会的なミステリを多く収録していたという印象がある。佐野洋『第112計画』、海渡英祐『極東特派員』陳舜臣『弓の部屋』あたりに新鮮な感覚が漂っていて、いい意味で中間小説の大人びいた雰囲気があった。
 とはいっても、東都ミステリーの白眉はやっぱり、都筑道夫さん。『猫の舌に釘を打て』は今でもこの東都版でなければ醍醐味が味わえないと思うし、『飢えた遺産』(別題『なめくじに聞いてみろ』)もこの造本が良く似合う。
 ほとんどが書下ろしで揃ったというのも編集者としての力量。
 この本の中で何度も原田さんの口から出てくるのは、小説に固定したジャンルはない。純文学と大衆文学とか、本格ものとそうでないものといった分類は意味がなく、編集者として、いつもその狭い枠組みをつぶして良質のエンターテインメントを作ろうとしたか、という主張だ。
 お人柄そのものも脱領域的で、どんなジャンルの人とも優しく接触されていたことだろうと推測できる。大系の編纂とか書下ろしシリーズの定着、「霧の会」(女性推理作家の会)や「不在クラブ」(新進気鋭の作家を集める)といったソサエティの世話役など、マイルドなご性格でなければ出来なかったことだろうと思う。
 個人的なことを書かせていただくなら、僕自身、原田さんの謦咳に接したのは1979年の乱歩賞の予選委員の同僚としてだった。この年の受賞作は高柳芳夫『プラハからの道化たち』だったが、原田さんと僕が読んだものの中に久司十三という人の書いた時代ミステリがあって、それをふたりで強力に推した思い出がある。原田さんの批評は全体に優しく、欠点をびしびし追求するタイプではなく、美質を見つけていく方だった。この時代小説には、僕も長く編集者をやっているけれど、これほど完成度の高い処女作ってなかなかないよ、と言ってくださったので、若輩の僕の鑑賞眼もまあまあだったんだと安心したのを覚えている。
 その時から35年。でも、壇上に立たれた姿は、予選委員会の会場(有名な講談社裏の古い旧館の一室だった)でお目にかかったその時とまったく変わっておられない。この本だけではつまらない。作家諸先生との交友録を別にまとめていただきたいと切に願うものだ。