土曜サロン

「シャーロッキアン翻訳家 中途の挨拶?? ドイルとヴァン・ダイン作品で考える古典ミステリの新訳問題」日暮雅通 第200回土曜サロン 平成26年9月20日

 今回はコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズとヴァン・ダインの新訳をされている翻訳家の日暮雅通さんにお話を伺った。
 最近は本邦初訳の作品ばかりでなく、すでに翻訳書が出ている作品も改めて新しい翻訳で出版されることも多い。その事情についてのお話である。
 まず日暮さんが考える「古典」の条件だが、原作が著作権切れで、複数の出版社が訳書を出せる、つまり「競訳」の対象となること、そして初訳以来数十年たって時代や言葉(日本語)が初訳時とかなり変わってしまっているということと、定義された。
 「新訳」をするメリットとして日暮さんが挙げたのは、まず翻訳が「古くなる・腐る」ということだった。五十年代から六十年代頃に翻訳されたミステリのほとんどは賞味期限を過ぎているという意見を紹介する一方で、優れた翻訳があれば新訳はいらないという意見もあるという。ただ井上勇が『ウインター殺人事件』のあとがきに「日本語の崩壊に当面した」と書いていることも言及され、われわれが翻訳文学を移入している時代は、日本語そのものが劇的に変化を遂げている時代でもあるのだという感を強くした。ただ古い翻訳も講談調のリズムの良さなどといった特徴もあり、人によっては古い方を好む場合もある。日暮さんも平井呈一訳『魔人ドラキュラ』を高く評価しておられた。
 さらに日暮さんは、新しい資料の発掘や文学研究の進展のおかげで、新しい解釈、原文の間違いや訳文の誤解への対応ができるようになったことが、新しい翻訳を提供するもう一つのメリットでもあると述べられた。たとえばこれは「ホームズ」シリーズの注釈本を例にとればわかりやすいと思う。
 また翻訳者の違いにより作品の雰囲気が変わり、それぞれを楽しめる。これは訳文の読み比べをするシャーロッキアンはよく言う。複数の翻訳があるときは、読者は自分のお気に入りの翻訳者をもっていることだろう。コナン・ドイルの「ボヘミアの醜聞」やヴァン・ダインの『ベンスン殺人事件』、セイヤーズの『ナイン・テイラーズ』の冒頭部分のさまざまな翻訳を実例として紹介し、時代や翻訳者によるおもむきの違いを教えてくださった。
 さらにかつて抄訳だった場合には、全訳を提供するという意味があるという。これは戦前に長編が短縮版で翻訳されたものなどのことだ。
 参加者もそれぞれ翻訳推理小説に思い入れがあり、談論風発してさまざまな意見や質問がみられた。たとえば「原作を現代の文体に改めるというのは、どういう意味があるのだろうか?」という質問に対して日暮さんは、「昔らしく訳すべきか、読者のために今らしくすべきかという二つのやり方があり、それは翻訳者それぞれの選択である」という答えをされた。また原文のままの改行を尊重すべきだろうかという質問にたいしても、読者が読みやすいようにすべきだという考え方と、元どおりにすべきだという二通りの考え方があると述べられた。さらに出席者の松坂健さんが「発地主義と着地主義」という表現をされたのにたいして、日暮さんは翻訳者は発地から着地までなめらかに読者を連れて行くのが役割であると言われた。
 日暮さんはシャーロッキアンとしても有名だが、そちらとの兼ね合いについて、「ホームズ研究家として訳すと面白くなくなってしまうので、ある程度意訳も必要だ」と言われた。実際ホームズ研究ではある単語が単数形か複数形かということまで問題になることがあるので、そこまで拘泥して日本語に移し替えると、非常に読みにくい文章になってしまうことは、想像ができる。
 題名についても、長年親しまれた題名を踏襲するのか、それとも最新の研究結果を採用するのかについて問題があるそうで、たとえばチェーホフの『桜の園』も、本当の意味からすると題名の正しい翻訳は『サクランボ畑』なのだそうだ。また『星の王子様』の「王子」も、大公や公爵とする解釈もあるが、『星の大公殿下』ではかわいさがなくなってしまうので、なやましいところである。

【参加者】芦辺拓、石井春生、植草昌実、河村幹夫、新保博久、直井明、長谷川卓也、松坂健、平山雄一(文責)
【オブザーバー】鍋谷伸一