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『映画館のころの思い出』

弐藤水流

 小説家としてデビューするまで、いろいろな職業を経験しました。何度か転職を繰り返し、最終的に落ち着いたのは映画会社でした。とはいっても、とくに映画が好きだったわけではありません。当時、すでに小説家を目指して応募原稿を書いていたので、少しでも物語に携わる仕事がしたいと思ったのです。
 東京郊外の映画館で長いあいだ働きました。当時はミニシアターブームで、欧米のアート作品に人気が集中していました。まだ日本にシネコンが一館もない時代です。働きはじめたころの印象は、映画興行は一種の博打(ばくち)なんだなぁ、というものでした。映画館にしても配給会社にしても、儲かるかどうかは作品次第です。不入りが続けば赤字ですが、ヒットを引き当てれば利益はでかい。雑居ビルに間借りしていた配給会社が、いつのまにか大きな自社ビルを構えていたりします。
 当時の映画興行界には独特の慣習がいくつも残っていました。あまり大きな声では言えませんが、どの劇場も売り上げを増やすために、様々な裏技を使っていたのです。その後、アメリカからシネコンが上陸し、興行形態が高度にシステム化され、古い慣習は一掃されました。
 私が勤務していた“小屋”は小さかったので、わりと暇な時間帯がありました。そんなときは、モギリのカウンターでこっそりと新人賞の応募原稿を書いていました。自宅で書くよりもはかどった記憶があります。ただし送っても送っても、はかばかしい成果は得られませんでした。したがって、私の劇場勤務はその後も続くこととなります。長く勤めていると、それなりに責任も課され、最終的にその劇場の運営をすべて任されるまでになりました。当然、仕事中に原稿を書く時間はなくなったのですが、仕事は面白かったです。
 映画の興行形態には『ブロックブッキング』と『フリーブッキング』があります。前者は特定の配給会社と契約し、封切作品を順次上映していくというものです。後者は配給会社の枠にとらわれず、劇場側が自由に作品を選んで上映していくものです。私のいた劇場は日中が“ブロック”、夜間(レイトショー)が“フリー”でした。
 レイトショーは週替わりで、四作品程度を一つのテーマでくくります。今月は『恋愛特集』、来月は『アクション特集』といった具合です。古い作品になると、どの配給会社がフィルムを持っているのかわからず、探すのにひと苦労しました。限られた手がかりから、あそこが所有しているのではと推測しますが、たいていすんなりとは見つけられず、あちこちに問い合わせることになります。そういうときは、ちょっとした探偵気分が味わえます。
 手続きを済ませてフィルムが届くと、上映初日の前に必ず試写をおこないます。フィルムに異常がないかを確認するため、一度ひととおり映写してみるのです。営業終了後の深夜に一人で居残っておこないます。だからホラーブームのころは大変でした。当時は『リング』をはじめとするホラー映画が量産され、私の劇場でも頻繁に上映していました。真夜中の誰もいない劇場でそうした映画を試写するのは、とても勇気がいりました。でも不思議なもので、何本も見ていると次第に慣れてきます。場面の雰囲気から「次はこう来るな」と読めてくるのです。おかげで、今はどんなホラー映画でも平然と見られるようになりました。
 映画フィルム(現在はフィルムではなくデジタルデータですが)は、配給会社からの貸与品です。上映期間の終了後、事前に取り決めた『フィルム料』を、劇場は配給会社に支払います。フィルム料には『歩率』と『フラット』の二種類があります。歩率は、興行収入から一定の割合を支払う形式です。邦画の封切作品の場合、当時の相場は五十~六十%でした。フラットは“固定金額”の意味で、興行収入の多寡にかかわらず、事前に決めた一定金額を支払います。一日一回上映で一週間借りた場合、古い作品だと最低で五万円くらい、封切まもない人気作だと最低で二十五万円くらいでした。現在はもう少し上がっているでしょう。
 どちらで契約したほうが得かは、客の入り次第ということになります。このあたりもブッキング担当者の腕の見せどころです。作品選びにしても、手堅く利益を上げるなら、二番落ちのヒット作を選ぶのがもっとも賢明です。でもどういうわけか、私はそれを良しとしないところがあって、ちょっと捻った作品選びをしていました。そのため、売上は伸びず本社には睨まれましたが、客には大層喜ばれました。
 小説が認められてデビューできたのは、その数年後のことです。こうして過去を振り返ってみると、長かったような、あっというまだったような、楽しかったような、つらかったような、不思議な時間でした。そう考えると、人生は映画に似ています。
 映画同様、人生も光と影で構成されていますしね。