新入会員紹介

入会のご挨拶

葉真中顕

 最良の春のあと、その帳尻を合わせるかのような、酷い夏が訪れた。
 この春、私は第十六回日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作『ロスト・ケア』を上梓し、ミステリー作家としてのデビューを果たした。子どもの頃からずっと思い描いていた夢が叶ったのだ。とても嬉しかったし、正直に言えば、私は浮かれた。密かに、自分には才能があるのだと確信した。
 しかしそれがまったくの誤解だったことを、この夏、記録的な暑さの中で思い知った。
 書けないのだ、二作目が。書いても書いてもしっくりこない。世に出すに足ると思えるものが書けない。ろくなものが書けない。十枚書いては十枚捨て、結局、一歩も進まない、という日々が続いた。
 この状況は、絶望的な疑いを私に抱かせる。デビュー作で才能のすべてを使い切ってしまったのではないか? 私はもう何も残っていない抜け殻なんじゃないか? と。もうこのまま一行も書けず消えてゆく、そんな危機感が心を蝕む。どうすればいいか、それは分かっている。書けばいい。けれど書けない。焦りと恐怖が、腹の奥にぽたぽたと溜まってゆく。苦しい。どうかなってしまいそうだ。
 と、まあ、ひと言でいえば、煮詰まったわけだ。
 そんな中、気分転換に映画を観た。アウトプットに躓いたら、インプット、というわけだったのだが……これでまたよりいっそう苦しくなってしまった。映画がつまらなかったわけではない。むしろ突き刺さった。が、刺さり方が問題だった。
 観た映画は宮崎駿監督の『風立ちぬ』だ。この夏、いや今年一番の話題作だから、観たという方も多いだろう。この映画は、色々な見方ができると思うが、やはり私はものづくりについての映画として観た。
 主人公、堀越二郎は素晴らしい飛行機──零戦──をつくるが、飛び立ったそれらは、その優秀さゆえに戦況を激化させ、結局、一機も戻ってこない。作中でこのことは、「国を滅ぼした」と表現される。主人公がものづくりに没頭した結果、国は滅びたのだ。それでも、つくらずにいられなかった。現実の堀越氏がどうだったかはともかく、この映画の中ではそういうことになっている。そして、宮崎監督がこの主人公に自分を投影していることは明らかだ。
 本作の根底にあるのは、ものをつくることの「呪い」だ。
 それを観た私が感じたのは、スクリーンの中に描かれることと、いま私がやっていることとの絶望的な差だ。私だって、作家を志すくらいだから、「つくらずにいられない」という感覚は分かる。ときにつくったものが、誰かを傷つけることも知っている。ものづくりの「呪い」も、なんとなく分かるような気がする。
 でもね。夢中になって何かつくった挙げ句、国が滅びる?──そんな規格外の「呪い」のリアリティは私にはない。自分の書いたものが、まるきり誰にも影響を与えないとは思わない。上手くいいパンチが入れば、読者を喜ばせたり泣かせたりできる、くらいのことは思っている。が、せいぜいそのくらい。国を滅ぼせるとは到底思えない。私は、自分のものづくりについて、常識的な範囲での「力」と、常識的な範囲での「呪い」しか想定できない。
 けれど、堀越二郎はものづくりで国を滅ぼした。そして、たぶん、おそらく、宮崎監督も自分の作品にはそのくらいのポテンシャルがあると確信している。そうでなければ、ああいう描き方にはならないと思う。
 これが「天才」ということなのか、と打ちのめされた。二作目が書けなくてひと夏潰す作家とは、次元が違い過ぎる。「つくらずにいられないっての、分かるわ~」とか「ものづくりは、呪いだよね~」とかなんとか、共感した振りをすることもできる。しかし、その振りの先には真っ黒い絶望がある。だって、私は国を滅ぼせないのだから。私は天才ではないのだから。
 まあ、でも、何か少しでも慰められることがあるとすれば、それは、いま作家を名乗っている人のほとんどが、私と同様に国を滅ぼせないということか。自分の才能に疑問を抱いているのも、苦しいのも、怖いのも、私だけじゃない……はずだ。皆、それぞれの苦しみの中で、どうにか自分のものづくりをしているのだろう。作家であるというのなら、私も、その末席で、書いていくよりないのだ。たとえ天才でなくても。
 と、決意したところで書けないものは書けないのだけれども。ああ苦しい。

──始めまして。この度、入会させていただきました葉真中顕と申します。本当に苦しい夏でした。今も苦しいですが、このまま消えるつもりはありません。凡人なりの精一杯で書いていこうと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。