私の執筆儀式

『本当に仕事しているの?』

鳴海風

 私の仕事部屋つまり書斎は、一階の台所つまり家内の仕事場の真上にある。
 蔵書をひんぱんに出し入れする私の足音と振動は、もろに下へ伝わる。
 これが愚妻の私へのツッコミとなる。
 初めての本格的なノンフィクション『江戸の天才数学者』(新潮選書)を執筆しているときは、これがひどくなった。
 そもそも私の執筆速度は異常にのろい。
 長年エンジニアとして働いてきた習性で、データを重んじる。これは歴史作家の仕事にも通じて、データ(文献、取材)を大切にしている。書斎で仕事しているときも、文献を何度も何度も何度も引っ張り出して調べるので、歩き回ることになる。ノンフィクションともなれば、なおさらだ。
 歩き回る理由はまだある。古来アイデアがひらめく場所として、「三上(枕上、厠上、鞍上)」という言葉があるが、私の場合は鞍上で(馬を飼っているわけではない、念のため)、車を運転しているときのように、適度な緊張と過激でない体の揺れ・運動がリラックスした状態を作り、ひらめきを生む。
 だから、狭い書斎の中でも、積極的に体を動かす。歩く。で、それが階下へ伝わって、愚妻の疑惑となる。
「今日は執筆はかどったみたいね?」
「あ、いや、うん、もちろん」
 なんのことはない。疲れて寝ていただけだったりする。