土曜サロン

「小樽文学館の話」
土曜サロン・第一九一回
二○一三年三月十六日

 中相作氏、小西昌幸氏と並んで「日本三大公務員」(ナンダロウアヤシゲ氏命名)最後のお一人、市立小樽文学館の玉川薫副館長を土曜サロンにお迎えした。
 玉川さんは文学館のお仕事に就かれてそろそろ三十余年。全国の文学館でも小樽文学館は独自の企画展示で際立っている。そんな玉川さんに、印象深かった展覧会のひとつとして、一九九四年の「花の原型・中城ふみ子展」のお話をご紹介いただいた。
 中城ふみ子(一九二二-一九五四)は北海道帯広市出身。歌集『乳房喪失』で戦後短歌史に革新をもたらした夭折の歌人で、没後四十年を控え、一九九三年に玉川さんは文学展を企画した。一九五四年、元号だと昭和二十九年当時に性や愛を大胆に歌い、スキャンダラスな印象もあったためか、それまで文学展のような催しはなかったのである。代表作に「もゆる限りはひとに与へし乳房なれ癌の組成を何時よりと知らず」「唇を捺されて乳房熱かりき癌は嘲ふがにひそかに成さる」「冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか」など。
 まず一九九三年の夏、中城の発見者であった当時の『短歌研究』編集長・中井英夫に連絡をとった。すると本多正一さんという青年から「現在、中井は入院中だが、中城のことは承知した」という手紙が届いた。上京の際、本多さんに病院へ案内していただき、中井英夫と最初で最後の対面を果たす。
 『虚無への供物』の作者としてすでに伝説的な存在であり、緊張のあまりしどろもどろであったが、いまになるとやはりお目にかかっておいてよかったと玉川さんは回想される。その年の十二月十日、『虚無への供物』の物語の開幕するその日に中井英夫が亡くなったからである。
 翌一九九四年の中城ふみ子展は伝記小説『冬の花火』を書いた渡辺淳一氏の講演も盛況で、記録的な来場者数だった。本多さんにご協力いただいたが、中井英夫のもとにあった中城ふみ子の遺品の小さな真珠のネックレスを手に取ったときには胸が詰まった。しかし展示では初公開された中井英夫との往復書簡が圧巻だった。ここまで密なやり取りがあったとは想像もしていなかったのである。
 中井「満堂の観衆は固唾をのんで登場を待つてゐます。さういふ『登場』はこの歌壇では十年に一度の『事件』でせう。ためらはず、それを百年に一度の事件にしませう」(四月二十一日)、中城「あなたは何て熱心で非情な方でせう。病人は虐げられてやうやく常人の意地を取り戻すのかしれません」(四月二十三日)、中井「僕は生き抜いてくださることを信じてゐます。同じ大正十一年生まれといふのにも何か一緒に暗い星のしたを歩いてきた同時代的な運命を感じ、またそれゆゑに『生き抜く』ことを信じられる気持でゐるのですが」(四月三十日)、中城「中井さん/来て下さい。きつといらして下さい/その外のことなど歌だつて何だってふみ子には必要でありません/お会ひしたいのです。 ふみ子」(七月二十日)
 中井英夫は七月二十九日、札幌に中城を見舞い、八月一日まで病床に付き添ったが翌日帰京。三日に投函した中城宛最後の手紙(中城は三日死去。手紙は未読)の最後の一節は「小さな花嫁さんに 英夫」となっていた。
 この往復書簡は『中井英夫全集第十巻 黒衣の短歌史』(二○○二年、創元ライブラリ)に完全収録され、大きな反響を呼んだ。現在は絶版のようだが、なんとかいい形で読むことができるようになって欲しい。
 その後も本多さんとは、本多正一写真展「彗星との日々」(二○○三~四年)、森山大道写真展、黒岩比佐子コレクション展(二○一○年)、村上芳正展(二○一一年)、活版印刷物語展(二○一二年)、とご協力をいただいている。今年は中井英夫の没後二十年にあたり、「没後二十年 中井英夫展」(二○一三年十一月九日~一四年一月十三日予定)を計画中だ。
 「中井英夫さんは『虚無への供物』が名高いですが、ミステリープロパーの作家ではないと思います。でも推理作家協会のみなさん、この機会にぜひ小樽へお出かけください」とのことでした。ずっと立ったままお話しくださった玉川さん、ありがとうございました。
[出席者]新保博久、直井明、長谷川卓也、本多正一、石井春生(文責)
[オブザーバー]竹上晶、渓山丈介