二〇〇九年十月の土曜サロンは会員の原田裕氏をお迎えした。原田さんは講談社、東都書房を勤められて現在は出版芸術社社長をされている。推理作家協会には探偵作家クラブ時代から在籍されているので、今回は探偵作家クラブ発足のころについてうかがった。
原田さんは昭和二十一年九月に繰り上げ卒業し、朝日新聞社、毎日新聞社を経て、十一月に講談社に入社された。この当時、探偵小説は低く見られていたという。戦前から格の付けでは純文学が頂点であり、その次が大衆小説、それからずっと下がって時代小説、さらにその下が探偵小説だった。純文学の作家は貧しくても尊敬される。大衆小説の作家は純文学出身でないと純文学の作家から目の敵にされていたが、それでも大衆小説の存在は認められていた。一方、時代小説は髷物とよばれ、おもしろおかしく書いているだけ。探偵小説はエログロナンセンスなどをすべてひとくくりにされ、小説ではない、読み物としても下のものとされていた。それでもジャンルがあるだけマシであり、探偵小説といっても知らない人もいたという。
もちろん、探偵小説の作家たちはこの状況を悔しく思っていた。乱歩は海外の作品も読んでいたから探偵小説が知的な読み物であることは分かっていたし、坂口安吾や大井廣介、十返肇のように探偵小説の面白さを分かっているインテリたちも一部ではあるがいた。海外の作品もよくない翻訳ではあったが翻訳されていたし、「新青年」もあった。しかし、一般の読者は探偵小説の存在を知らなかった。純文学の作家でも探偵小説を読む人は少なかった。
悔しい思いをしていた探偵小説の作家たちは、だからとても仲がよかったという。戦前のことだが、横溝正史が胸を患い諏訪に疎開したとき、探偵作家たちで基金を集めたところ、百円以上のお金が集まった。当時の百円は今の一千万に相当する。しかも探偵作家の数は今と違って少ない。それなのに大金が集まったのは大変な友情といえよう。
一方、純文学の作家たちは仲が悪くてお互いの悪口ばかりいいあっていた。木々高太郎は慶応にいたが、探偵小説を書いているということで肩身が狭い思いをしていた。そのせいなのか、推理小説という呼び方を推奨し、このことで乱歩と論争になった。しかし、探偵作家たちは誰一人として木々の悪口をいわなかった。こういう仲のよさが土曜会の発足につながったのかもしれない。
講談社に入って最初に配属されたのは「キング」編集部だったが、その後「講談倶楽部」へ移動、文芸の出版部部長を経て、ふたたび「キング」へ編集長として戻った。「キング」では今までにない企画を打ち出したが、従来の読者からは不評だった。その後は「日本」を経て企画室へ移った。そこでは東都書房という名前で本を出していた。
書下し探偵小説全集を企画したのは「探偵小説の連載は難しい。連載でちびちび書くのはできない」という理由で角田喜久雄や横溝正史に「講談倶楽部」での連載を断られたことも影響している。執筆者は最初から決まっていた。文壇に序列があったように探偵作家の序列も決まっていた。まず乱歩、そして戦前の四天王、長老、それから戦後の四天王。これで十二人。あともう一人欲しいということで大坪砂男を考えたが、本人から長編は書けないと断られた。そこで十三番目は募集することにした。新人に限らずにしたのは、その頃は書下ろしというものはなく、長老である水谷準や城昌幸ですら長編は難しいといっていたので、新人に書けるわけないと思っていたからだった。
募集だけでなく、探偵作家クラブでいろんな人にお願いもした。中には書いてくれた人もいたが、そこへ鮎川哲也が現れた。乱歩はこれだといったので十三人目に決めた。鮎川哲也のその後の活躍を思うと、いい人が現れてくれたと思っている。角田喜久雄と横溝正史は結局、書けなかった。横溝正史はその後「宝石」に連載したものをなんとか書き上げたが、角田喜久雄は書けないままだった。
やがて乱歩賞の時代が始まり、新人でも長編を書く人が増えてくる。乱歩賞からデビューした作家や書き下しで出た作家が活躍し、直木賞を取るようになってから、純文学と推理小説の垣根は取り払われたように思える。いつの間にか中間小説という言い方は姿を消し、大衆小説という名前も無くなった。時代小説はあるが、今は捕物帖もなにもかも含めて時代小説という。そういう風に時代は変わっていった。探偵小説も同じかもしれない。
なお、今回の集まりでは原田さんがご持参された島根県浜田市の環日本海と石陽日本海(日本海酒造株式会社)を味わいながら、お話を聞かせていただきました。辛口ですっきりとした口当たりのいいお酒と共に聞かせていただいた数々の貴重なお話にしばし酔わせていただきました。
〔出席者〕加納一朗、直井明、長谷川卓也、本多正一、石井春生
(文責)
〔オブザーバー〕末永昭二、垂野創一郎