日本推理作家協会会報

直井明のミステリよもやま噺(二十一)
「まえがきとあとがき」


 本のあとがきというのは大切だ。著者自身の思いのたけが述べられているし、そこに書かれた著者の告白とか感慨を取りあげて、書評に盛り込む評論家も多い。つまり、評論家にこう書いてもらおうと誘導するのに使う手もあるわけだ。
  協会員のOさんはエッセー集のあとがきで、どんな人がその本を買うのか推理して、(1)彼の作品の愛読者、(2)彼の作品はともかく、作者がどんな奴か知りたい人、(3)どちらでもなく、エッセーばかり読む人と、三種類に分類している。うまい分類で、私もその分類の一つに当てはまるのがおかしかった。
  作者のあとがきの代わりに、評論家による解説や対談が載ることも多い。先日読んだ作品の末尾についていた作家論は恐ろしく難解で、本屋であとがきを立ち読みしてから買うかやめるか決める読者は、たじろいでしまうのではないかと思ったほどだ。熱のこもった論文も、商業的には逆効果になりかねない。
  ほとんどの文庫本には第三者による解説がついていて、役に立つ。もっとも、解説者には、けなせないという弱味がある。まさか、本書はこの作家としては出来のわるいものであり……と書くわけには行かない。辛口評論家の某氏は文庫の解説を〈バンザイ解説〉と呼んだ。いやあ、この度、先生の御本が文庫になりましたね、バンザーイ、バンザーイといった解説だというのだ。けなせないにしても、解説者は大体作者なり作品なりについてなにがしかの情報を与えてくれる。もっとも、有名作家が他の作家の旧作のあとがきを書き、〈解説〉ということになっているが、昔、その作品を読んだときの他愛ない思い出話に終っていて、作品の本質を抉った感じがないので失望した例もある。
  先日、翻訳ミステリを読み始めて、冒頭の三行目で引っかかった。何だか変だぞと思ったが、本文を読み終えて、訳者の書いた解説に入って驚いた。私が引っかかった箇所は原作者の仕組んだ「引っかけ」であり、訳者はこの一行の翻訳に神経を遣ったと述べているのだ。疑問が氷解し、こういうのは絶対必要不可欠の解説だなと思った。
  海外の作家がまえがきやあとがきを載せることは滅多にない。ハメットが『マルタの鷹』に序文をつけているのは異例といえよう。まえがきの代わりに、献辞や謝辞、エピグラフが載る。最近、作者が自分の言葉をエピグラフに使っている作品に出会ったが、何だか図々しい感じがした。謝辞は、削除されても読者には分からないし、不都合も生じないが、数年前の翻訳ミステリに謝辞も訳した方が面白かったろうにという例があった。作中の映画撮影の場面に関してはケリー・マクギリスの助言に感謝すると著者は言う。マクギリスは映画の『刑事ジョン・ブック』や『トップガン』の主演女優である。ほう、あの女優と知合なのかと思ったら、次作はマクギリスに献辞されていて、(この献辞も翻訳されていないが)作品の中に彼女が子供を連れた通行人として姿を見せ、主人公と街ですれ違う。作者の遊び心がもり込まれている場面なのだが、献辞を削ってしまっているから、著者の遊び心は不発に終った。
  献辞のなかに情報が含まれていることもある。一九五〇年ごろか、リリアン・ヘルマンの作品集がダシール・ハメットに献辞されているのを見つけて、不思議に思った。女流劇作家とハードボイルド作家とどんな接点があるのか、当時は見当もつかない。二人が愛人関係だったことを雑誌の記事や書物で知ったのは、十年くらい経ってからだ。