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国木田独歩(明4・7−41・6)が川崎市溝ノ口の亀屋を舞台にした「忘れえぬ人々」を発表したのは明治三十一年「国民之友」四月号であった。「多摩川の二子の渡しを渡って少しばかり行くと溝ノ口という宿場がある。その中程に亀屋という旅人宿がある。」という書き出し。詩人の筆は自然描写なども繊細だ。その亀屋に一夜の宿をもとめた彼の目に「主人の言葉はあいそが有っても、一体の風つきは極めて無愛嬌である。年は六十ばかり云々」とある。
亀屋の奥のうすぐらい部屋で彼、大津は秋山という旅の画家と同宿する。終夜酒をのみながら大津の原稿「忘れえぬ人々」について二人は語り合う。忘れてもよい人で忘れられない人、なんのゆかりも無い人達を思い出している。翌日二人は別れ別れに旅立っていった。後に大津が「忘れえぬ人々」の一人として書き加えた人は秋山ではなく、亀屋の主人であった。その主人のモデルになった鈴木慶蔵は進取の気性に富んだ血の気の多い人であったという。
これを探偵小説とみると、謎、推理、解決がある。忘れ得ぬ人の一人は、大津が話し合った秋山かと私は予想したが、亀屋の主人であったとあるのに意外性を感じたものだ。探偵小説の勃興期には意外性だけでも探偵小説として通用していた。
因みに私の祖母は明治二十五年に、近くの梶ヶ谷から二十二歳で溝ノ口に嫁いできているが媒酌はこの亀屋の主人であった。私の祖父方の意向をいれ、見合いはしなかったという。祖母の姉の嫁ぎ先、魚藍の天ぷら屋の姑が亀屋から嫁った人だったためらしい。
「忘れえぬ人々」の前年八月の処女作「源おぢ」(「文芸倶楽部」)がある。人生に行き詰まった源おぢは結末で首吊り姿で発見されているというように意外性がある。
「河霧」(三十一年八月「国民之友」)も二十年ぶりに帰郷した男が、河舟で下った海で自殺するという意外がある。
「少年の悲哀」(明治三十五年八月「小天地」)は、月影のさわやかな夜、下男の若者に面白いところへ連れて行ってやると裏山から小舟で行ったところは青楼の一つにいる若い女の許で、朝鮮に流れ渡るという女との別れで、少年がその女の弟に似ていることから連れて行かれたのだが、下男は女に大コップに酒をなみなみとついでやるなど、淋しい探偵小説。
「運命論者」(三十六年四月「山比古」)は、私が海浜の砂山に出ると、用心深げにやってきた男がこっそりと砂の中から掘り出した物があった。それはブランデーのビンで、男は暇をみては浜に来て、ブランデーを飲んで、うさを晴らしていたのだ。その男のなやみとは何かと期待させる探偵小説。
翌年五月「青年界」発表の「馬上の友」は大尉の語った珍談。昔、郷里に貸し馬屋の子で国之助という友達があった。がそれから十年後の今日、運送船備後丸の事務長に国之助がなっていたのに、逢ったことから二人は十五歳頃の田舎での交際を回顧したという話。
同年十二月「文芸界」発表の「女難」は尺八を吹く盲目の男の語る女難の回顧談。二十八の時の女難は、眼病で失明したため、乗り切れず、その話はそれで終っている。(以下は略す)
しかし、独歩の死去の前年、四十年の「窮死」「疲労」と没年の「二老人」「竹の木戸」などには肺患の疲労が現れていて独歩本来の物かどうか疑われる。
中村光夫はその著「明治文学史」(昭和三十八年筑摩書房)で「独歩は後の花袋などとちがって、彼の実生活の直写と見られるような作品はほとんどなく(中略)彼の生活でなくとも、精神がよく現れていて、人間としての独歩がそこに躍如としています。この仮構による自己表現は、彼と同時代に仕事をした眉山、風葉、天外などの作家が持たなかった特色であり、彼が今少し長命であったら、我国の自然主義文学は、もっと想像力を自在に駆使した小説を数多くのこし得たのではないかと思われます」と述べていたが、末尾の想像力を云々を「探偵小説を含めて、もっと想像力を自在に駆使した小説を云々」と言いかえてもよいのではないかと想像される。
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